黒板五郎のウバイド國體ワンワールド

落合史観に関する話題を取り扱うブログ

落合莞爾先生とウバイド國體ワンワールドの結びつきについて(更新版)


落合莞爾先生とウバイド國體ワンワールドの結びつきについて(更新版)
初稿:2018年11月19日(月) くもり
更新:2020年3月16日(月)
 
落合莞爾さんの書籍は読んでいて、とても難しい。超難解である。ちょっと読むと疲れて、すぐに中断してしまう。
理由は、多分、話が多岐に亘ること、それに自分の頭が着いて行けない事だと思う。
 
何故そうなるか、落合莞爾さんの知識の幅がものすごく広くて、いわゆる雑学が豊富なこと。そして、その雑学をベースにして、真実の歴史を洞察しながら解明して行く上で、落合莞爾さんの洞察の内容を細かく書籍に書いているのだが、それが読み手のレベルよりもかけ離れて高いために、理解出来なくて読み手の頭の中が行き詰まって疲れるためだろうと思う。
インペリアル・アイズ企画の担当者である中森護さんは良く言われる。「落合先生の言うことを理解しようと思うな。聞き流して、理屈抜きにそういうものかと受け止める様にするのが良い。」
  
その落合先生の書籍の中で今回読み終わった書籍は、何と、先頭の章が超分かり易い内容であり、落合先生も、こんなに分かり易い書き方が出来るんだと嬉しくなってしまった(笑)。
その本は、「落合秘史7 ワンワールドと明治日本」である。
 
なお、出版元である成甲書房が、もう落合莞爾さんの書籍から手を引くと言っているので、在庫が無くなると廃版となり、もう、手に入らなくなると思われる。
なぜ手を引くかは色々と憶測が飛んでいるが、真実の歴史を暴露されたら困る勢力から圧力が掛かったのかもしれない。
 
以下、その序章(自序)の分かり易い内容をピックアップする。落合先生の書籍の中で最初にこの本を読んでいたら、理解がもっと早まったのかもしれない。
 
■京都皇統
 
ナポレオン戦争が終わった欧州にて、欧州王室連合の各国が集まり、欧州の秩序再建と領土分割を目的として1814年~1815年にウィーン会議が開催されたが、会議にて、どうしても日本皇室にも王室連合に加わって貰い、世界王室連合として世界の立て直しを図りたいという事が決まった。
なお、欧州王室連合には、大塔宮護良親王後醍醐天皇の皇子)の末裔である欧州大塔宮一族(名前は落合莞爾さんの命名)の王室(ベルギー王室、オランダ王室、イングランド王室、オーストリア王室(ハプスブルク家)、etc)も入っている。
 
・欧州より連絡を受けた日本皇室は、急いでこの申し入れに対する国内の受け入れ体勢を整えるために、政体の抜本的変革(鎖国幕藩体制開国・公議政体)を進めることが急務となった。
 
・そのため、皇室の体制を急遽見直し、それまでも國體(國體黄金ファンドの管理、外交など)と政体(国内政治)とを分担する皇室内体制ではあったが、これを更に明確に二系統に分け、両系統体制で進める事を決めた。これが堀川政略(説明し易くするために落合莞爾さんが名前を付けた)である。大政奉還明治維新などは、この堀川政略の一工程である。
 
・二系統(國體と政体)に明確に体勢を分けるために、二人の天皇國體天皇政体天皇)を建てることにし、孝明天皇(江戸時代の最後の天皇)の皇太子であった睦仁親王を國體天皇に、政体天皇護良親王の末裔(直系男系の子孫)であり周防国田布施)在住の大室寅之祐にそれぞれ即位させる事にした。
 
國體黄金ファンドを管理・運用して、世界のバランスを取るのが重要な使命である國體天皇は、その性質上、外部からファンドを狙われない為には存在を秘匿する必要があるため、今現在でも、(少なくとも、現役で生存されている國體天皇と國體参謀、國體奉公衆は)存在を秘匿されている。一方の政体天皇は表の天皇として孝明天皇を継いで大室寅之祐明治天皇となる。國體天皇となる睦仁親王の存在を秘匿するために、対外的には、大室寅之祐孝明天皇の皇子・睦仁親王として入れ替わった。
 
・このような経緯上、孝明天皇崩御して睦仁親王が即位した事に見せかけるために、孝明天皇は偽装崩御した。実際には、偽装崩御したあと、水戸・徳川斉昭菩提寺である京都堀川の日蓮宗・本圀寺(ほんごくじ)の境内に造営した堀川御所に入った。本物の睦仁親王も一緒に堀川御所に入った。
 
・因みに、睦仁親王(本物)と大室寅之祐(後の明治天皇)は、共に、東京皇城の吹上御苑にて、1871/10/17に揃って大嘗祭を執行しておられるので、どちらも天皇である。
 
京都皇統とは、この堀川御所にいた國體天皇サイドの皇室、子孫の事を指す。
 
■京都皇統が、落合莞爾さんに白羽の矢
 
・日本の歴史は、記紀古事記日本書紀)の時代から1300年後の現代までの間に、各種の事情による偽史が溜まりに溜まって来ており、その禊祓い(みそぎばらい 真実の歴史への修正)をさせる人物として、1978年頃から京都皇統(國體天皇高松宮宣仁親王)が落合莞爾さんに白羽の矢を立てていたそうである。
 
・実は、落合莞爾さん(結婚の際に、懇願されて奥様の姓である「落合」を名乗る事にしたが、奥様が他界されたあと、元の姓「井口」に復姓され、現在は本名:井口莞爾、ペンネーム:落合莞爾のまま)も大塔宮護良親王の直系男系子孫であり、皇室が管理する皇統譜に名前が記載されているらしい。護良親王紀伊国那賀郡吉仲荘調月(つかつき)の橘姓豪族だった井口左近の娘に産ませたのが益仁親王(後の崇光天皇であり、その男系が皇別井口氏となった。落合(井口)莞爾さんは、その直系男系子孫である。
 
・落合莞爾さんは、実は、2007年の時点で京都皇統代(國體天皇は故・高松宮宣仁親王。皇統代は喜久子妃殿下)の舎人から「舎人文書」を渡されていたそうであるが、当時は、何のことか全く分からなかった上に内容が難解だったし、実父である井口幸一郎さんが危篤状態で看護に追われていたために、しばらく手付かずの状態のままになり、8年間埋もれていたらしい。この舎人文書は、当時ご存命だった京都皇統代が自ら口授された内容を舎人が文書化したものであり、京都皇統代から「これを井口に伝えよ」と命じられていたものらしい。
 
■落合莞爾さんが、現在の歴史研究に引き込まれた発端は、頼まれた画家「佐伯祐三」の絵画の真贋調査
 
・1995年9月、吉薗明子さんという女性から、画家・佐伯祐三氏の絵画の真贋調査を頼まれたのが、ウバイド國體ワンワールの歴史研究に足を踏み入れる発端だったそうである。
 
・そして、真贋調査を落合莞爾さんに頼む様に、吉薗明子さんに薦めたのが、京都大徳寺立花大亀和尚であったらしい。
 
・立花大亀和尚の目的は、吉薗明子さんの父親だった吉園周蔵さんの日記「吉薗周蔵手記」を落合莞爾さんに解読させる事だったのである。この吉薗周蔵手記の中には、確かに佐伯祐三が出ては来るのだが、立花大亀和尚が知りたかったのは、佐伯祐三の事などではなく、吉薗周蔵が國體奉公衆として動いたこと、吉薗周蔵が仕えた國體参謀・上原勇作の行動など、裏側の真実の歴史についての動きを知る事だったのだろうと思う。
 吉薗周蔵と吉薗周蔵手記については後述する。
 
・では、この立花大亀和尚とは何者か? 実は、彼が京都皇統の2代目國體天皇孝明天皇までカウントに入れれば3代目)であった堀川辰吉郎に仕える國體首脳だったのである。そして彼が、國體天皇堀川辰吉郎が1972年に亡くなった後に、接近してきた国際金融連合に取り込まれてしまい、国際金融連合のために國體黄金ファンドを使いたいという要請を承けてしまったのである。
 
・国際金融連合の触手は立花大亀和尚だけには留まらず、三笠宮崇仁親王にまで及び、三笠宮殿下が立花大亀和尚を支援する立場になってしまい、皇室に内部対立が起こってしまったのである。
 
昭和天皇が皇室の内部対立を解消した
 
・この事をFRB米連邦準備制度理事会。米国の中央銀行みたいなもの)経由で知った昭和天皇は、立花大亀和尚を遠ざけ、同じ宗教界から後任の國體首脳を選んだ。それが、表の顔は創価学会会長(名誉会長?)だった池田大作さんである。
 
昭和天皇が動かれた事により、結局、國體黄金ファンドの利用権は、国際金融連合には渡らなかった。
 
・以降、堀川辰吉郎さんの後を継いだ國體天皇高松宮宣仁親王三笠宮崇仁親王の兄弟の間で微妙な均衡を保つ事になる。この皇室内部の亀裂は2002年頃には修復されたそうであるが、「修復」の情報は皇室の外(国際金融連合、日本の政体、マスメディアほか)にまで十分に伝わらなかったため、その後も、彼らの影響力が及んでいるマスメディアが、雅子妃殿下バッシングや皇太子ご兄弟の不仲説などを取り沙汰する流れが続いているそうである。
 
■吉薗周蔵とは?
 
・吉薗周蔵は、江戸時代最後の天皇であった121代孝明天皇の側近として仕えた正三位右兵衛頭堤哲長(あきなが)の孫であり、元帥 陸軍大将・上原勇作は、父・吉薗林次郎の従兄弟である(吉薗周蔵は、上原勇作から見たら従兄弟(吉薗林次郎)の子なので従甥)。
上から下に書くと、堤哲長と宮崎県の豪農吉薗家の養女ギンヅルが京都で出会い、二人の間に出来た男子が吉薗林次郎であり、林次郎の長男が吉薗周蔵である。そして、ギンヅルの甥が上原勇作である。
 
孝明天皇は、堀川政略の一環で偽装崩御して堀川御所に入り國體サイドの位置付けとなったが、それに合わせて堤哲長も偽装薨去して孝明天皇の配下で國體サイドの仕事をした。内縁のギンヅルも堤哲長の片腕となって國體の仕事を請け負った。
 
・ギンヅルの甥である元帥 陸軍大将・上原勇作も、若い頃から表の顔とは別に裏の顔として國體の仕事に従事しており、後に國體参謀、薩摩ワンワールドの総長となった。
 
・吉薗周蔵は、上原勇作の「草」(隠密)となり、國體罌粟(ケシ)の栽培を任され、時には上原勇作の命で海外渡航もした。
 
・若い頃に日本留学していた周恩来、呉達閣、王希天とも出会い、立花大亀和尚(大徳寺)、甘粕正彦大尉、久原房之助(日立、日産、日本鉱業の創立の基盤となった久原財閥の総帥)、大谷光瑞西本願寺法主)とも親しい関係であった。画家・佐伯祐三の美術学校への入学を画策する様に吉薗周蔵に頼んで来たのが大谷光瑞である。
 
■南北皇統(南北朝)の統合を始め、現在に及ぶ皇位継承権ルールを決めた大塔政略
 
・72代白河天皇が実質的に院政を始め、上皇が実権を握るようになった。
 
・更には、88代後嵯峨天皇の二人の皇子(後の89代後深草天皇と90代亀山天皇)が、管轄する荘園群の関係で、後深草天皇持明院統(荘園は長講堂領)亀山天皇大覚寺統(荘園は八条院領)の2皇統に分かれため、両皇統から交互に天皇践祚(せんそ)させる両統迭立(てつりつ)が始まった。
 
・その後、鎌倉幕府の勧め天皇の在位を10年とする合意(文保の和談(和約))がなされたため、10年ごとに天皇(任期10年)と上皇(任期は終身)が誕生することになり、何人もいる上皇の中で実権を握る上皇は、その時の天皇の父親(これを治天の君と呼ぶ)と決めたため、自分が天皇を譲位して上皇になったあと、自分の皇子が天皇践祚するまで治天の君にはなれず、実権を握るまでに数十年待つことになる。
 
・一方、天皇治天の君の任期は10年と年数を切られていて長期政権にはならないため、鎌倉幕府にとっては天皇をコントロールし易くなって都合が良く、幕府の権力(発言力)が増大する事になった。
 
・そこで皇室側は考えた。両統迭立院政、10年任期制を中止して昔に戻す方法を。
 
・96代後醍醐天皇大覚寺統)が、自分の参謀である文観西大寺の僧)と策を練り、自分の皇子であり超逸材であった大塔宮護良親王直系男系子孫のみに皇位継承権を持たせるという大塔政略を作り上げた。
 
持明院統側とも足並みを揃えて鎌倉(北条)幕府に対抗する必要があったが、幸い、自分(後醍醐天皇)の双子の兄弟(93代後伏見天皇)が秘密裏に92代伏見天皇の子として持明院統側の皇籍に入っていたため、幕府には両統が対立しているかに見せかけながら、大塔政略に則った両統の合一を図った。
 
・この大塔政略の皇位継承ルール(皇位継承は、大塔宮護良親王の直系男系子孫に限ると言うルール)は、日本の皇室だけではなく、これから欧州に出て行って建てる王室に対しても適用する政略として考えられていた。実際には、この大塔政略の実現のために護良親王が偽装死してウラに回る事も大塔政略の一部として組み込まれており、護良親王は偽装死したあとに鎌倉から船で房総に渡り、そこから陸路で大和の西大寺に入った。その後に生まれた護良親王の皇子、皇孫(偽装死の後に生まれた子なので、当然、皇統譜には載っていない子孫)が國體黄金ファンドを持って欧州に渡り、ペストで人口が激減していた欧州を立て直すことになった。オーストリア帝国ハプスブルク家)や現在のベルギー王朝、オランダ王朝などが、護良親王の直系男系子孫たちが興した王室である。落合莞爾さんは、この系統を欧州大塔宮と呼んでいる。
 
・因みに、護良親王の直系男系子孫は、日本と欧州の両方にいるが、126代続く日本の天皇の中にも、勿論、日本と欧州の両方の血統が入っている。具体的に言うと、119代光格天皇、120代仁孝天皇、121代孝明天皇、124代昭和天皇、125代天皇(現上皇)、126代今上天皇は、欧州大塔宮の血統である。122代の明治天皇の時に、護良親王の最初の皇子で周防国に派遣された興良親王の直系男系子孫である大室寅之祐(日本側の血統)に替わったが、123代大正天皇が偽装崩御した後に欧州大塔宮血統の裕仁殿下が昭和天皇となったため、昭和天皇の孫である今上天皇は欧州大塔宮血統である。京都皇統以降の國體天皇も、初代孝明先帝が欧州大塔宮血統であり、続く(本物の)睦仁親王、その子である堀川辰吉郎、その子である高松宮宣仁親王も欧州大塔宮の血統である。現國體天皇が誰かは秘匿されているので、欧州側の血統なのか日本側の血統なのかは分からないが。
 
【2020/2/25追記】
 
❏落合莞爾さんの略歴
 【参考文献】落合莞爾さんの各著書に掲載されている「著者について」より

  略歴
1941(昭和16)年、和歌山県生まれ
東京大学法学部卒業
住友軽金属に入社
経済企画庁調査局に出向、住宅経済と社会資本の分析に従事し、1968年~1969年の「経済白書」の作成に携わる。
住友軽金属を退職。その後、中途入社第一号として、野村證券に入社
野村證券で、商法、証券取引法に精通し、日本初のM&Aを実現する。
1978年、野村證券を退職し、落合莞爾事務所を設立。経営・投資コンサルタント、証券・金融評論家として活躍


 
❏現在活動中の”真実の歴史探究”を始めた経緯
●落合莞爾さんは、経営コンサルタントとして何人かの上場企業創立者の秘密顧問に就いていたが、所得の大部分は株式市場投資で稼ぎ、平たく言えば巷の相場師として過ごしていた。
 
●そんな中、1989年には奥様に先立たれ、株式相場の天井を見通してしまった事もあり、落合さんは、経済活動から足を洗うこととなった。
 
●以後は、特に何をするという事もなく、落合さんは、立ち上げた出版社「東興書院」を拠点として、何冊かの出版をしながら、戦後日本社会の真相探究を始めた。
 その動機は、戦後日本の実情とマスメディアや学者達の言う事とが余りにも乖離している事を実感したため、本当の現実を知りたいと思った事だそうである。
 
●その結果、自民党独裁の55年体制が、実は国民を惑わす幻に過ぎず実情は、ご主人様・米国に従属する半国家体制であるとの確証を得た。そこで、落合さんは、その研究を纏めた「平成日本の幕末現象」という本を1989年末に出した。
(先日、私は、この書籍(税込3,146円)を買おうと思い、ネットで調べたのだが、在庫は無く、中古本が18,000円で出ていた 笑)
 
●1993年頃より、面識の無い閑人っぽい方々が一人、また一人と麻布十番の落合さんの書斎に訪ねて来られる様になったそうである。勿論、わざわざ雑談をしに来た訳ではなく、某(なにがし)かの用件を持って来たそうであるが、結局、満足して帰る訳でもなく、それでも来訪が途切れる訳でも無く、忘れた頃にまた来られるという状態が続き、そのうちに、帰り際に驚くべき歴史上の秘話を囁いてから帰る様になって来たそうである。
 
●そういう方々が数人はいたそうだが、そのうちの一人、和尚という渾名の方だったが、その人が1995年9月に、吉薗明子という女性を連れて来たそうである。用件は、佐伯祐三画伯の絵画の真贋問題の解決をして欲しいというものであった。
 そして、問題解決のために参考データとして預かったのが、吉薗明子さんの父親の膨大な量の日記「吉薗周蔵手記」である。
 
●吉薗周蔵手記を解読し始めた落合さんは、大正から昭和にかけての日本の政界と軍部の驚くべき裏事情を知ることとなり、1996年3月から、月刊情報誌「ニューリーダー」への連載を始めたそうである。
 佐伯祐三絵画の真贋問題については、裏で組織的に贋作扱いにする工作をした輩がおり、落合先生はそれを突きとめられた。
 
●閑人さん方の来訪は、諸般の事情により減っていき、いつしか一人だけが引き続き、落合先生の書斎通いをしたそうである。それが、実は、京都皇統(121代孝明天皇が偽装崩御して堀川御所に移られてから起こした皇室血統。國體天皇の系統)に仕える舎人だったそうである。当時の國體天皇であった高松宮宣仁殿下高松宮殿下薨去後の京都皇統代を務めた喜久子妃殿下に仕えた舎人である。喜久子妃殿下薨去後は、後を継いだ現國體天皇に仕えているそうである。
(現國體天皇が誰であるかは秘中の秘事であり、絶対に公開されないらしい。)
 
●落合さんは、吉薗周蔵手記、歴史事象や歴史記録、國體天皇に仕える舎人から伝授される断片的な皇室内秘事(古代史伝授)などからの洞察により真実の歴史を探究し、書籍、講座などを通して公開していく活動を今も継続されている。
 
●因みに、2016年8月8日午後3時、当時の天皇陛下(現上皇陛下)のお言葉が日本国民に対して伝えられたが、当日の朝6時過ぎに、國體天皇に仕える舎人より落合さんに電話が入り、「今日のお言葉には落合の著作に対する陛下の思いが籠められている」という伝言があったそうである。驚いて聞き返そうとしたが電話はすぐに切れたらしく、後から届いたメールには、「自分は今から貝になる」と書かれてあったそうである。
 
【参考文献】
明治維新の極秘計画 「堀川政略」と「ウラ天皇」 落合秘史[Ⅰ](P5~P9 自序)
天孫皇統になりすましたユダヤ十支族 「天皇渡来人説」を全面否定する(P19~P21 高松宮殿下舎人からの「秘事伝言」)
 
❏京都皇統が何故、落合莞爾さんに白羽の矢を立てた?
●私が京都皇統から古代史伝授を受けることになったのは、生家の紀州粉河井口家と大塔宮護良親王の宿縁によるものである。
【出典】落合・吉薗秘史[7] 三種の蝦夷の正体と源平藤橘の真実 (P122より引用)
 
【補足】大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)
●96代後醍醐天皇の皇子。
 
●超優秀な人材だったそうであり、後醍醐天皇が、南北朝を統一して皇室の一本化を進める際に、護良親王の直系男系子孫(=父親の父親の父親の・・・と父親を辿れば護良親王に辿り着く子孫)のみに皇位継承権を持たせるという規定を作った。
 ここで、直系男系子孫とは男性に限る訳ではなく女性でも良いので、女帝(女性天皇)であっても構わない。但し、女帝の子供は、父親(女帝の夫)も護良親王の直系男系子孫でない限り、父親を代々辿っても護良親王には到達しないので、直系男系子孫ではなく、従って皇位継承権は無い。
 この規定を含む政略の事を、落合莞爾さんは大塔政略と名付けた。
 
護良親王が、紀州粉川荘の井口左近の娘との間に作った男子が、益仁(ますひと)親王であり、後に、興仁(おきひと)親王と名前を変えて北朝初代光厳上皇の皇子として皇籍に入り、北朝3代崇光(すこう)天皇となる。
 
護良親王は、鎌倉幕府倒幕の戦中において足利直義(ただよし)支配下の鎌倉府にて幽閉されていたが、後醍醐天皇サイドは、護良親王を鎌倉府から秘かに逃す事を決め、鎌倉幕府内に潜入している後醍醐天皇サイドの人を動かして護良親王を救う工作を実行した。
 具体的には、鎌倉府で護良親王を斬殺する理由作りのための八百長騒動である「中先代の乱を創り出し、その混乱の中で斬殺を偽装して、護良親王を一旦、舟で房総半島に移したあとに陸路で奈良の西大寺まで連れて来る工作を実行した。
 その際の、後醍醐天皇サイドの人間とは、中先代の乱を起こした諏訪賴重、斬殺を偽装して護良親王を房総半島に逃した淵辺義博、そして、実は、鎌倉府を支配していた足利直義もそうだったのである。
 
護良親王は、表の歴史上は鎌倉で斬殺された事になっているので、それ以降の表の記録は残っていないが、西大寺で指揮を執り、90代まで生きたそうである。護良親王西大寺に移った後に出来た子、孫(表の歴史には残っていない子孫)の一部が、欧州に渡り、王家を創設する。これが、落合莞爾さんが名付けた「欧州大塔宮家」である。
 江戸後期に欧州大塔宮家から日本に里帰りした伏見宮典仁(すけひと)親王、その子である119代光格天皇、その子である120代仁孝天皇、その子である121代孝明天皇と、欧州大塔宮の血統が日本皇室内に続く。
 なお、122代明治天皇大室寅之祐は、欧州大塔宮の血統ではないが、護良親王の第一皇子である興良(おきなが、おきよし)親王が、当時、朝鮮半島からの渡来人の基地的な位置付けになっていた周防の地(現山口県熊毛郡田布施町)に、渡来人取り締まりのために派遣されており、大室寅之祐はその興良親王の直系男系子孫なので、同じく護良親王の直系男系子孫である事には間違いない。
 因みに、124代昭和天皇は、欧州大塔宮の血統だそうである。1989年1月7日に崩御されたと日本国民は思っているが、実は、あれは偽装崩御だったそうであり、その後、秘かに欧州に里帰りし数年間ご存命だったらしい。なので、現在の上皇様(平成時代の天皇)、今上天皇(令和時代の天皇)も欧州大塔宮の血統と言う事になる。
 2014年12月に、当時の美智子皇后様が、超ハードスケジュールでベルギーのファビオラ元王妃の葬儀に駆け付けたのは、ベルギー王室が欧州大塔宮の家系であり、昭和天皇、現上皇陛下と親戚だからであろうと思う。
  
【補足】落合莞爾さんと護良親王の関係
護良親王紀州粉河荘の井口左近の娘の間に出来た皇子が崇光天皇(益仁親王)であるが、その1歳下に弟がいたそうであり、それ以降の井口家の男子は、代々、井口左近と称したそうである。その直系男系子孫が落合莞爾(井口莞爾)さんなのである。だから、落合莞爾さんも護良親王の直系男系子孫なのである。
 
●皇室は、後醍醐天皇が作った「護良親王の直系男系子孫にのみ皇位継承権がある」という規定を代々踏襲しているため、その規定に該当する子孫を全員管理しているそうである。だから、皇室は、落合莞爾さんの事も、多分、落合莞爾(井口莞爾)さんが生まれた時点からフォローしていた筈である。話によると、國體天皇だった高松宮様、もしくは、高松宮薨去のあとしばし代理を務められた喜久子妃殿下は、落合莞爾さんの事も誕生日もご存じだったとか。
 井口家と大塔宮護良親王の宿縁とは、そういう事である。