黒板五郎の國體ワンワールド

落合史観に関する話題を取り扱うブログ

これまた、落合莞爾先生の洞察が正しかった事が、京都皇統からの最近の古代史伝授で裏付けられた。ハプスブルク家は欧州大塔宮の血統だった!


これまた、落合莞爾先生の洞察が正しかった事が、京都皇統からの最近の古代史伝授で裏付けられた。ハプスブルク家は欧州大塔宮の血統だった!
2020年1月14日(火)
 
一つ前の書き込みに続き、以下の「インペリアル・アイズ無料メール」で落合先生が3年前に洞察した「ハインリッヒ・クーデンホーフ伯爵は、欧州大塔宮ではないか。」という事についても、今月号(2020年1月号)のインペリアル・アイズインターネット講座(有料)の中で、落合先生が、最近になって京都皇統からの古代史伝授により、ハプスブルク家南朝の皇子(即ち、欧州大塔宮(大塔宮護良親王の直系男系子孫))の血統だった事が判明したと名言されている。
 
 インペリアル・アイズ無料メール 青山光子〜パン・ヨーロッパの母〜
 
落合先生は「落合・吉薗秘史[3] 日本皇統が創めたハプスブルク大公家」の中で、
 
ハプスブルク家は、北朝2代・光明天皇の実子(皇統譜上は北朝3代・崇光天皇の皇子)であった栄仁(よしひと)親王の皇子・治仁王(はるひとおう)が偽装死して欧州に渡り、エルンスト鉄公と同体(入れ替わり)となり、マジャール人であるツィンバルカ・マゾビエツカとの間に生まれたフリードリヒ三世をハプスブルク家に入れた
 
と説明していたので、これまでは、ハプスブルク家は皇統の血統ではあるけれども、南朝ではなく北朝の血統であり、従って、護良親王の直系男系子孫では無い(即ち、欧州大塔宮の血統では無い)とされていたのだが、皇統からの最近の古代史伝授により、この説が誤りだった事が分かり、今月のインターネット講座にて真実(実は南朝の皇子だったという真実)で上書きされた。
 
この辺りの話は、近日中に発刊されるらしい落合・吉薗秘史シリーズの最新刊で説明していると言われていた。
落合先生の書籍は、今後、amazonで買える事になったので、発刊されたら直ぐに買いたいと思っている。
 
因みに、大塔宮護良親王ハプスブルク家の繋がりをざっくり説明すると、
 
護良親王と、紀伊国那賀郡吉仲荘調月(つかつき)の橘姓豪族だった井口左近の娘の間に生まれた皇子達のうち、三番目の皇子が、後に欧州に渡ったそうであり、年代的にその三番目の皇子の孫くらいに当たるのがハプスブルク家に入ったフリードリヒ三世だそうである。
治仁王は、そのずっと後に欧州に渡ったそうであるが、渡欧の目的は、フリードリヒ三世占星術を伝授することと、國體黄金ファンドを欧州に運び込む事だったそうである。フリードリヒ三世の父親はエルンスト鉄公と言う事になっているが、欧州大塔宮の血統であることは間違いないので、名前をエルンスト鉄公と名乗っていたのかもしれないと落合先生は言われていた。
 
上の「三番目の皇子」は、実は、護良親王が鎌倉で淵辺義博に殺害された(実は偽装工作で、淵辺義博が密かに小舟で対岸の房総半島に逃した)あと、陸路で大和の西大寺に入った後に生まれた皇子だそうである。井口左近の娘も紀伊国(現和歌山県)であるから、隣県の奈良(大和)への出入りは容易だったと思われ、偽装殺害された後の護良親王西大寺で再会して生活を共にしていたのは想像に難くない。ただし、歴史上は護良親王は鎌倉で死んだ事になっているので、当然ながら三番目の皇子やらその子孫の存在は記録には残っていない筈である。
 
ついでに、護良親王と井口左近の娘の間に生まれた皇子達について、今月の講座の中で落合先生が言及された話を以下にザックリ書く。

順番
説明
1番目 益仁親王北朝初代・光厳上皇の第一皇子として皇籍に入れられ、名前も興仁(おきひと)親王と改名されている。後の北朝3代・崇光天皇である。
2番目 母方の井口家(紀州粉河(こかわ)の橘姓井口氏)に戻され、井口左近(二代目?)を名乗った。その直系男系子孫が井口莞爾(ペンネーム落合莞爾)さん
3番目 欧州に渡り、ハプスブルク家に入った。その子孫(年代的に孫くらい)がフリードリヒ三世。

 
落合先生は、落合家の娘さんと結婚した際に、落合家に男児がいなかった事から落合姓を名乗って欲しいと懇願され、自分の父親に相談したところ、弟もいるから井口を名乗らなくても良い、オマエの好きにしろと言われ、落合姓にしたそうである。その後、奥様が亡くなられ、落合先生ご自身もその後、井口家の話(井口左近、橘姓、・・・)を知って、復姓して井口莞爾に戻ったそうである。ただし、ペンネームはそのまま落合莞爾で通しているそうである。