書籍メモ:「落合・吉薗秘史[7] 三種の蝦夷の正体と源平藤橘の真実」
初稿:2019年7月22日(月) 雨
更新:2020年2月25日(火)
落合莞爾先生の書籍は、3回、4回と何度でも読み返すくらいでないと、なかなか理解出来ないと良く言われている。私も、時間があれば読み直したいのだが、ただ読むだけでは なかなか頭(記憶)にインプットされないので、自分なりに理解してブログ記事にするなり、要点を書き出すなりして、とにかく記憶にインプットして行きたいと思っている。それでなくても、ここ1~2年の記憶力低下が著しいので(笑)。
先日、この書籍の中の 仙洞政略についてだけはブログ記事として纏めたが、書籍に出て来る全てのテーマを纏めるのは、とても気力が続かずメゲてしまうので、今回は、部分的に引用する形で記憶へのインプットを試みてみる。
お経だって写経すれば少しは理解が深まると思うので、とにかく、読むだけではなく書くことが大事だと思う(笑)。
以降、引用部分と私が記述した部分が明確に区別出来る様に、書籍からの引用部分は文字色をこんな色にする。
❏P122(一部引用)
私が京都皇統から古代史伝授を受けることになったのは、生家の紀州粉河荘井口家と大塔宮護良親王の宿縁によるものである。
【補足】大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)
・96代後醍醐天皇の皇子。
・超優秀な人材だったそうであり、後醍醐天皇が、南北朝を統一して皇室の一本化を進める際に、護良親王の直系男系子孫(=父親の父親の父親の・・・と父親を辿れば護良親王に辿り着く子孫)のみに皇位継承権を持たせるという規定を作った。
ここで、直系男系子孫とは男性に限る訳ではなく女性でも良いので、女帝(女性天皇)であっても構わない。但し、女帝の子供は、父親(女帝の夫)も護良親王の直系男系子孫でない限り皇位継承権は無い。
この規定を含む政略の事を、落合莞爾さんは大塔政略と名付けた。
・護良親王が、紀州粉川荘の井口左近の娘との間に作った男子が、益仁(ますひと)親王であり、後に、興仁(おきひと)親王と名前を変えて北朝初代光厳上皇の皇子として皇籍に入り、北朝3代崇光(すこう)天皇となる。
・護良親王は、鎌倉幕府倒幕の戦中において足利直義(ただよし)支配下の鎌倉府にて幽閉されていたが、後醍醐天皇サイドは、護良親王を鎌倉府から秘かに逃す事を決め、鎌倉幕府内に潜入している後醍醐天皇サイドの人を動かして護良親王を救う工作を実行した。
具体的には、鎌倉府で護良親王を斬殺する理由作りのための八百長騒動である「中先代の乱」を創り出し、その混乱の中で斬殺を偽装して、護良親王を一旦、舟で房総半島に移したあとに陸路で奈良の西大寺まで連れて来る工作を実行した。
その際の、後醍醐天皇サイドの人間とは、中先代の乱を起こした諏訪賴重、斬殺を偽装して護良親王を房総半島に逃した淵辺義博、そして、実は、鎌倉府を支配していた足利直義もそうだったのである。
・護良親王は、表の歴史上は鎌倉で斬殺された事になっているので、それ以降の表の記録は残っていないが、西大寺で指揮を執り、90代まで生きたそうである。護良親王が西大寺に移った後に出来た子、孫(表の歴史には残っていない子孫)の一部が、欧州に渡り、王家を創設する。これが、落合莞爾さんが名付けた「欧州大塔宮家」である。
江戸後期に欧州大塔宮家から日本に里帰りした伏見宮典仁(すけひと)親王、その子である119代光格天皇、その子である120代仁孝天皇、その子である121代孝明天皇と、欧州大塔宮の血統が皇室内に続く。
なお、122代明治天皇(大室寅之祐)は、欧州大塔宮の血統ではないが、護良親王の第一皇子である興良(おきなが、おきよし)親王が、当時、朝鮮半島からの渡来人の基地的な位置付けになっていた周防の地(現山口県熊毛郡田布施町)に、渡来人取り締まりのために派遣されており、その興良親王の直系男系子孫なので、同じく護良親王の直系男系子孫である事には間違いない。
因みに、124代昭和天皇は、欧州大塔宮の血統だそうである。1989年1月7日に崩御されたと日本国民は思っているが、実は、あれは偽装崩御だったそうであり、その後、秘かに欧州に里帰りし数年間ご存命だったらしい。なので、現在の上皇様(平成時代の天皇)、今上天皇(令和時代の天皇)も欧州大塔宮の血統と言う事になる。
【補足】落合莞爾さんと護良親王の関係
・護良親王と紀州粉河荘の井口左近の娘の間に出来た皇子が崇光天皇(益仁親王)であるが、その1歳下に弟がいたそうであり、それ以降の井口家の男子は、代々、井口左近と称したそうである。その子孫が落合莞爾(井口莞爾)さんなのである。だから、落合莞爾さんも護良親王の直系男系子孫なのである。
【2020/2/25追記】
護良親王と井口左近の娘の間に生まれた最初の皇子が、上に書いた益人親王(後の北朝3代崇光天皇)であるが、二番目の皇子が、井口家の跡継ぎとして井口家に戻された二代目井口左近である。その子孫が落合(井口)莞爾さんである。
そして、護良親王が鎌倉で偽装殺害された後に舟で房州に渡り、陸路で奈良・西大寺に入って井口左近の娘と再会したあとに生まれた三番目の皇子が、欧州に渡って欧州大塔宮の皇統を創る訳である。オランダ王室、ベルギー王室、オーストリア王室(ハプスブルク家)は、この渡欧した三番目の皇子の子孫達が創った。
ハプスブルク家について言えば、年代的に見て、渡欧した三番目の皇子の孫か曾孫が、神聖ローマ帝国の皇帝をハプスブルク家が世襲する様にしたフリ−ドリヒ三世である。フリードリヒ三世の父親は、エルンスト鉄公、母親はマジャール人のツインバルカ・マゾヴィエツカと言われているので、渡欧した三番目の皇子の子か孫が、エルンスト鉄公と名乗ったと思われる。
・皇室は、後醍醐天皇が作った「護良親王の直系男系子孫にのみ皇位継承権がある」という規定を代々踏襲しているため、その規定に該当する子孫を全員管理しているそうである。だから、皇室は、落合莞爾さんの事も、多分、落合莞爾(井口莞爾)さんが生まれた時点からフォローしていた筈である。話によると、國體天皇だった高松宮様、もしくは、高松宮様薨去のあとしばし代理を務められた喜久子妃殿下は、落合莞爾さんの事も誕生日もご存じだったとか。
井口家と大塔宮護良親王の宿縁とは、そういう事である。
❏P17〜P18(一部引用)
第二次大戦の敗戦後、GHQの指令を受けた文部省が推進し、コミンテルンの工作を受けた各地の教育委員会が流布してきた「欠史八代不在説」や「皇室半島渡来説」に、だれも抵抗せず、今日まで日本史界をすっぽりと覆っていることである。あまつさえ近年は「聖徳太子不在説」まで唱える不逞の輩が出てきた。反日史観を支える提唱者は出自が疑われることをいとわず、文部科学省の恩賞を期待したのである。浅はかなこの種の偽史作業は、平成時代の終わりとともに自壊過程に入るのは目に見えている。
❏P33(一部引用)
幕末朝廷の最大の秘事は、124仁孝天皇の弟がひそかに清華家中山家を継いで、権大納言中山忠能(ただやす)を称したことである。これは皇室秘話中も秘話で、拙著が初めて公開するため、拙著以外のいかなる著にも出ていないが正真正銘の事実で、これを根底におかなければ、明治以後の皇室を理解できないのである。
❏P33(一部引用)
精華家として敢えて摂家の下風に立ち、国事御用係として硬軟を使いわけながら、秘かに朝廷を運用していた権大納言中山忠能は、慶応三(一八六六)年、名家堤哲長(あきなが)に指令して孝明天皇の資産を「政体皇室資産」と「國體ファンド」に分別させたのである。
堤哲長は明治二年四月に急逝するが、これは堀川御所に入って國體ファンドの管理に当たるための偽装薨去であって、以後の哲長は、側妾の吉薗ギンヅルを通じて國體参謀と國體奉公衆を動かしていたのである。
【補足】吉薗ギンヅル
・堤哲長の側妾だった吉薗ギンヅルは、吉薗周蔵の祖母であり、吉薗周蔵が「草」(特殊任務)として仕えた陸軍大将・元帥の上原勇作は、吉薗ギンヅルの甥である。
❏P76(一部引用)
米軍占領下の戦後日本で「支那」の語は、政治的に使用が禁止されたか(「が」の誤植?)、文化的には存在してきた。使用禁止もいつしか解かれたのに、このワープロで文字変換をかけても出てこないのは平成日本の怪現象と言わざるを得ない。
【コメント】「支那」という語について
・落合秘史とは全然関係ない話であるが、落合先生が書籍の中で書いているので、同じ気持ちの私もコメントしておく。
支那は、英語でもChinaと言うし、我々が支那と呼んでも何の不思議も差し支えもない。世界中が支那(China)と呼んでいるのに、日本人が支那の事を「中国」と呼ぶ方がオカシイ。中国は、九州と近畿の間の本州部分を呼ぶれっきとした日本の地名なのだから。
どうやら、支那は自分達の国が世界の中心にあるから中國(中心の國)と呼ばせたいらしい。そんなもん、支那人達が勝手に呼べば良いだけの話であり、日本人が気を使って支那の事を中国と呼ぶ必要など全くない。だから私は、文脈上「中国」と呼ばざるを得ない場合を除き、支那の事は支那と呼ぶ事にしている。
❏P77~P79(一部引用)
大正六年にウィーン大学で血液型分離法を調べてきた周蔵は、呉秀三の依頼で、その結果を配下の医者たちに伝えるが、その中に額田兄弟がいた。
(中略)
周居應(王希天)が額田兄弟を知っていた理由は次のように推察される。ドイツ医学系の呉秀三がウィーン医学と接点があり、ウィーン医学を支配下におくハプスブルグ大公を通じて参謀総長上原勇作の配下に組み込まれたものであろう。
【補足】上原勇作と欧州の知られざる深い関係
・欧州國體(ハプスブルク系、ケルト系)は、中華大陸に近代国家(後の中華人民共和国)を建てるための人材育成を目的として天津南海学校を創立するが、その天津南海学校の三羽ガラスと呼ばれた卒業生3人を、近代国家のモデルとして選んだ日本に留学させた。その3人が、周恩来、呉達閣、王希天である。
王希天は、関東大震災の混乱の中で甘粕正彦(憲兵大尉)の企てによる偽装死により死んだ事になっているが、名前を周居應と変えて、昭和の終わり頃まで生きていた。
・上原勇作は、25歳の時にフランス留学した際に、アルザスのポンピドー家の娘・ジルベールと秘密結婚し、在欧ワンワールドの秘密結社(大東社)にも入会している。実は、ポンピドー家は欧州大塔宮の一族であり、國體(多分、國體天皇)が上原勇作を留学させた目的の一つは、ポンピドー家の娘と秘密結婚させて在欧ワンワールドに繋がりを持たせる事だった。
因みに、上原勇作とジルベールの間に生まれた娘は、後に、来日して甘粕正彦(勿論、國體側の人間)の愛人となっている。
・上原勇作から、血液型分離法の習得のためにウィーン行きを命ぜられた吉薗周蔵は、呉秀三教授より医学特訓を受けた後、大正5年にウィーンに渡った。その際に、在欧ワンワールドのネットワークが、現地に入った吉薗周蔵に対して強力な支援をしたのは、上原勇作が在欧ワンワールドと繋がっているからである。
【以下、7月22日加筆】
❏P89~P90(一部引用)
寒河江川流域であるが、そこで津軽(=ケシ)を栽培していた者がいた。鎌倉時代に摂関家領の寒河江荘の地頭として入った大江広元支流の寒河江氏で、江戸時代に本間氏の配下に入ったと思われる。
寒河江氏が宗像氏を介してつながる二階堂氏は、工藤氏や伊東氏と同じく藤原南家の末裔である。藤原南家が天平時代に藤原北家と橘氏に滅ぼされる形を取ったのは、國體奉公衆としてケシ栽培に専従するために中央政界から姿を消すためで、以来地域社会に潜ったと推定される。
菅原道真の出た土師(はじ)氏の子孫が中世以降、アヘン事業に携わってきた。
❏P90(一部引用)
寒河江市には、大江姓寒河江氏の保護を受けてきた法相宗の単立寺院で天台真言兼学の瑞宝山慈恩寺がある。
本尊を弥勒菩薩とし、脇侍として釈迦・地蔵・不動・降三世の五体からなる構成は他に例をみないが、これが実は慈恩寺が実質的にマニ教院であることを示している。そもそも法相宗は実質がマニ教であるからそれも当然であるが、ここに法相宗ないし行基宗団とケシの関係がうかがえる。
【補足】マニ教
・聖徳太子が日本に持ち込んだのは、実は、仏教ではなくマニ教だったそうである。太秦広隆寺にあるのは弥勒菩薩(マイトレーヤ)であり、マニ教そのものである事が分かる。
・聖徳太子が建立した七大寺(法隆寺、広隆寺、法起寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、葛木寺)にあるのは全て弥勒だそうである。如意輪観音(救世観音)も実は弥勒なんだそうである。
・仏教では、釈迦と弥勒を二つ立てる訳には行かないので、弥勒の方を何十億年か先に現れる未来仏であると言う様な理屈を作ったらしい。
❏P91(一部引用)
アイリーン(銀座のバー)のママから直接聞いたのは、電通の髙橋治之(現専務)が開店後三年分の運転資金を出したとのことである。髙橋治之はわたしが親交していた髙橋治則君(イ・アイ・イ社長)の兄である。毎月五十万円は電通の平社員だった髙橋の月給では無理だから、実質金主は近年まで電通を支配していた大徳寺の立花大亀和尚と推察される。
理由は、髙橋治則君が史上に残る日本長期信用銀行の大倒産をもたらしたのは、立花大亀和尚の指示を受けたもの、と分かったからである。ノリちゃん(髙橋治則)は、戦後日本の経済成長を支えた長銀を借り倒して整理するという、他の誰もできない大仕事をしたのである。
【補足】長銀の倒産
・立花大亀和尚は、國體天皇だった堀川辰吉郎の國體黄金ファンドの運用管理人。立花大亀和尚の指示で長銀を潰したと言う事は、國體が絡んでいるということか?
長銀が倒産したのは1998年なので、ちょっと時期的に國體黄金ファンドの運用管理人だった時期とはズレがある様にも思うが、立花大亀和尚は次の國體天皇だった高松宮殿下にも仕えたと言うことなのかも。