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聖徳太子は推古天皇と敏達天皇の間に生まれた竹田皇子だった


聖徳太子推古天皇敏達天皇の間に生まれた竹田皇子だった
2020年2月23日(日) 晴れ
 

  • 30代敏達(びだつ)天皇の第一皇子である押坂彦大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)を生んだ息長の広姫(おきながのひろひめ)が、575年1月に皇后となったが、同年11月に急逝したため、翌年(576年)3月に、571年から敏達妃となっていた29代欽明天皇の皇女・額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)が、新しい皇后となった。
  • ところが、実は、敏達天皇の皇后であった息長の広姫と、息長の広姫が急逝したあとに敏達天皇の新しい皇后となった額田部皇女は、同一人物であった。
    これは、京都皇統から落合莞爾さんに伝えられた史実である。
  • 即ち、一人の女性が、ある期間に息長の広姫額田部皇女一人二役を演じていて、息長の広姫の方を偽装崩御させる事により二役の期間を終了したと言う事である。
    息長広姫:(記録上は)生年未詳〜575年11月。息長真手王の娘。
    額田部皇女:(記録上は)554年5月〜628年4月。29代欽明天皇蘇我堅塩媛の間に生まれた娘。
  • この様な工作をした目的は、額田部皇女の叔父であった蘇我馬子を実質的な政体最高権力者の座に着けて政体を蘇我馬子に任せ天皇は、当時の最優先課題であった日本の本格国際化とマニ教大乗仏教)の導入に力を注ぐ事であった。
  • 額田部皇女は、後に、33代推古(すいこ)天皇となる。
  • 聖徳太子の父親は、記録上は、31代用明(ようめい)天皇推古天皇の同母兄)と言う事になっているが、実は、30代敏達天皇であった。即ち、敏達天皇と皇后の額田部皇女の間に出来た竹田皇子(たけだのみこ)聖徳太子である。
    息長の広姫(実は額田部皇女と同一人物)の偽装崩御に合わせて、竹田皇子(たけだのみこ)厩戸皇子(うまやどのみこ)と名前を変えたのである。
      (即ち、竹田皇子=厩戸皇子聖徳太子
  • 33代天皇は、額田部皇女が即位して推古天皇となり、厩戸皇子(即ち、自分の息子である竹田皇子)を立太子して摂政皇太子である聖徳太子として実質的な天皇位に就け、自分が形式的な天皇となった。

《補足追加》
上の説明の中で、息長広姫額田部皇女を並べて書いて、どちらにも『(記録上は)』という但し書きを付加したが、付加した意味は、どちらかの記録が「嘘」だと暗示した訳である。
但し、書いた時点では、どちらが「嘘」かは私には分からず、それでもまあ流石に皇女(天皇の娘)というのが「嘘」という事は無かろうと思い、息長広姫の方が「嘘」だろうと思っていた。
ところが、参考文献「天皇と黄金ファンド」の先の方(194ページ)を読んだところ、額田部皇女の方が「嘘(=架空の皇女)」だった様で、「息長真手王の娘」と言うのが「本当(=実在の人物)」だった様である。即ち、息長広姫を欽明天皇の架空の皇女「額田部皇女」に成りすまさせて、二役を演じさせたと言うのが正しいらしい。
確かに、敏達天皇も額田部皇女も同じ父親(欽明天皇)なので、兄妹で夫婦になるのは近親婚で変だナァとは思ったのだが、記録がそうなっている(兄妹で夫婦になっている)以上、昔はまあ異母兄妹の夫婦くらいまではあるのかも知れないと納得していたのである。しかしながら、息長広姫が架空の「額田部皇女」に成りすましたのであれば、敏達天皇も架空の異母妹(額田部皇女)に成りすました息長広姫も全くの別血統なのだから、近親婚でも何でも無い訳である。
 
【京都皇統から落合莞爾氏に口授された真実の歴史】

項目
内容
真実の歴史 30代敏達(びだつ)天皇の前皇后だった息長広姫(おきながのひろひめ)と、前皇后が急逝した後の皇后となった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、後の33代推古(すいこ)天皇同一人物だった。
参考文献 天皇と黄金ファンド」(2016年4月30日) 8ページ