昭和天皇について
2021年5月4日(火) みどりの日 晴れ
追記:2021年5月5日(水) くもり
真実の歴史探求を目的に受講しているインターネット講座「インペリアル・アイズ」、今月号のQ&Aコーナーの一番目で採用された質問は、私が発信した質問である。
何度目の採用になるかは憶えていないが、5回以上は取り上げて戴いており、有難い事である。
今回の質問は、昭和天皇についての質問であった。
昭和天皇が、大正天皇の実子ではなく、欧州大塔宮(ベルギー王室)のご出身である事は、過去のインペリアル・アイズ講座や落合莞爾先生の講演会を通して承知していたのだが、今年2月号のインペリアル・アイズにて、落合先生より、昭和天皇に関する新しい情報が提供され、従来の提供情報とは食い違う内容を含んでいたため、早速、質問を投稿した訳である。
食い違う情報とは、以下の2点である。[伏見宮」と「堀川」は、全く別の血統なのだから、両立する筈がないと持った次第である。
(1)昭和天皇は、伏見宮の血統である。
(2)昭和天皇は、血統的に「堀川」に一番近い。
そこで、(1)、(2)のどちらかが間違っていると思われるが、どちらが正しいですか? という質問をしたのである。
落合先生のご回答は、以下の様な主旨であった。
●「分からない」
●「京都皇統から伝授された新しい情報について、たとえ疑問点があっとしても、自分で洞察して解決するまで開示を保留するよりも、伝授された貴重な情報を早くインペリアル・アイズ会員にも情報共有して、各々が洞察出来る様にする事を優先した。」
なるほどと思う回答であった。
そこで、早速、私なりの洞察の真似事をして、私の洞察結果についての落合先生のご感想を戴きたいという質問を昨日投稿した。
採用されるかどうかは不明である(笑)。
以下、皇室の血統について纏めたものを記す。
【前提となる真実の歴史事情】
日本の国は、初代・神武天皇(BC1世紀辺り(*1))以来、今上天皇に至るまで、天皇を元首(君主)とする国家であるが、1300年代に、持明院統と大覚寺統の二つの天皇血統の間で両統迭立する時代があった。
因みに、この時代の事を、私の様な戦後生まれの人間は、「南北朝時代」と教わったのだが、この「南北朝」という呼び方は、戦後(明治以降?)の日本史学界が名付けた呼び方だそうであり、江戸時代以前から「南北朝」という呼び方があった訳では無いそうである。
(*1)世間一般に言われるBC660年(皇紀26xx年)というのは、『神武が釈迦に下る訳には行かぬ』という理由で、皇室が意図的に下駄履かせして作ったフィクションであることが、皇室(京都皇統)より落合先生に口伝されている。なお、釈迦はBC624年生まれである。
この時代、10年任期で天皇が交代する(両統迭立する)という事情から、北条幕府の天皇家に対する影響力が相対的に増してきたため、この鎌倉幕府の増長を押さえるための対策として、両統迭立の解消、即ち、持明院統と大覚寺統の両統合一を、皇室側で秘密裡に進め始めていた。
そこに、幸運にも、91代・後宇多天皇に双子の皇子が生まれたため、これを利用して両統合一のシナリオを作って実行したのである。勿論、双子の誕生は、皇室内の秘事であるから、鎌倉幕府側には知られていない。勿論、2021年の今日でも、皇室内の秘事のままであり、公にはされておらず、京都皇統より落合先生に口伝された秘事である。
この時の双子の皇子(胤人親王、尊治親王)が、後の93代・後伏見天皇と96代・後醍醐天皇である。胤人(たねひと)親王は、91代・伏見天皇(持明院統)の第一皇子として皇籍に入り、尊治親王は、後宇多天皇(大覚寺統)の第二皇子として皇籍に入った。
この結果、後伏見天皇が即位した時点で、持明院統、大覚寺統の両統の血統が、実質的に大覚寺統の血統で一本化された訳である。
96代天皇となった後醍醐天皇は、僧文観などと以降の皇室の在り方を検討し、ある代以降の天皇の皇位継承については、後醍醐天皇の皇子である大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)の直系男系子孫のみに皇位継承権を与えるという皇室内ルールを決定した。
勿論、持明院統側も承知の事である。91代・伏見天皇(持明院統)が、大覚寺統血統の胤人親王(後の後伏見天皇)を我が子として皇籍に入れた事からも、持明院統と大覚寺統の共同作戦だったと言う事が分かる。
実際にこのルールに基づく皇位継承が始まったのは、102代・後花園天皇からである。勿論、今上天皇(徳仁親王)も大塔宮護良親王の直系男系子孫である。
因みに、秋篠宮文仁親王と同じく、敬宮愛子内親王も大塔宮護良親王の直系男系子孫であるから、皇室ルールとしては皇位継承権がある。但し、日本国という政体の法律上は、皇室典範にて女性天皇を認めていないので、日本国の象徴としての天皇には今の所なれないが。
更に言えば、落合莞爾先生(本名:井口莞爾)も大塔宮護良親王の直系男系子孫であるから、皇室ルールとしての皇位継承権はある。皇室ではなく民間人であるから、日本国の象徴天皇になれない事は自明であるが。
我々が学校史学で教わった「南北朝」(京都と吉野)の対立言うのは、実は、上に書いたとおり、鎌倉幕府を騙して油断させるための皇室側の八百長だったと言う事である。
この辺りの事は、下の系図に書いてある。色々と、持明院統側と大覚寺統側の間で系譜いじりの作戦が実行されているのが分かる。勿論、表の歴史には全く出ておらず、全て、京都皇統から落合先生への口伝情報を元に私が作った系図である。
天皇の系図(南北朝編)
ubaido.hatenablog.com
【大塔宮護良親王を頂点とする血統まとめ】
皇統 (血統) |
皇統の祖 |
祖の母親 |
補足 |
---|---|---|---|
大室皇統 | 興良親王 (おきよし、おきなが) |
北畠氏の娘 | ●父・護良親王の命により、朝鮮半島からの渡来人の基地的存在となっていた周防国田布施(現山口県熊毛郡田布施町)に、治安維持のために派遣された。 ●明治天皇(大室寅之祐)は、この皇統の末裔。 ●今話題になっている秋篠宮文仁親王の皇女・真子内親王の婚約者・小室圭さんも、この血統だそうである。 |
伏見宮皇統 | 益仁親王 (後の興仁親王=崇光天皇) |
紀伊調月荘) 井口左近の娘 |
●護良親王と井口左近の娘の間の第一皇子 ●護良親王の実子でありながら、北朝初代・光厳上皇の皇子として皇籍に入る。 ●北朝2代・光明天皇の実子・栄仁(よしひと)親王を自分の皇子として皇籍に入れる。 栄仁親王が初代「伏見宮」となる。 ●自分の実子・貞成(さだふさ)親王を栄仁親王の皇子(自分の皇孫)として皇籍に入れる。 ●102代・後花園天皇は、貞成親王(従って崇光天皇)の直系男系子孫である。 |
井口皇統 | 益仁親王の1歳下の同母弟。 | 同上 | ●皇籍離脱して二代目井口左近を嗣ぐ。 ●落合莞爾先生は、井口皇統の直系男系子孫なので、皇室ルールとしての皇位継承権がある。 |
ハプスブルク皇統 | 益仁親王の2番目の同母弟 (仮に皇子X) |
同上 | ●皇子Xは渡欧。 ●皇子Xの子もしくは孫(仮に皇子Y)が、ハプスブルク家のエルンスト鉄公と入れ替わり、ハプスブルク家に入る。 皇子Yとポーランド王女であるツインバルカ・マゾヴィエツカとの間に生まれたのが、後に神聖ローマ帝国皇帝となるフリードリヒ三世である。 |
欧州大塔宮皇統 | 右の補足参照。 | 不明 | ●護良親王は、鎌倉にて偽装殺害された後、小舟で房総に逃れ、陸路で奈良・西大寺に入った。 ●西大寺に入った後に生まれた護良親王の皇子達が、渡欧してベネルクス地方に入り、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク等の王室を興す。 ●江戸時代にベルギー王室の皇子が来日し、閑院宮家に入って閑院宮典仁(すけひと)親王となる。(「慶光天皇」「太上天皇」の追号あり) ●典仁親王の皇子・師仁(もろひと)親王が、119代・光格天皇となる。 ●明治~大正に、ベルギー王室より裕仁(ひろひと)親王が来日し、123代・大正天皇の皇子として皇籍に入る。 ●大正天皇が偽装崩御されたあと、裕仁(ひろひと)親王が即位して124代・昭和天皇となる。 |
京都皇統 (堀川) |
閑院宮典仁親王 | 不明 | ●欧州大塔宮(ベルギー王室)出身で来日した閑院宮典仁親王、その皇子で119代天皇を即位した光格天皇、その皇子である120代・仁孝天皇、その皇子である121代・孝明天皇、その皇子で、親子共に偽装死して京都堀川御所に入り、國體天皇となった本物の睦仁親王、その皇子であり世界國體天皇となった堀川辰吉郎、その皇子で國體天皇を継いだ高松宮宣仁親王。と、京都皇統は続く。現在の後継者は不明(非公開)。 ●因みに、表の歴史では睦仁親王が明治天皇を即位した事になっているが、実際は、大室皇統の大室寅之祐が、天皇を即位して明治天皇となった。本物の睦仁親王と、明治天皇(大室寅之祐)は、同日、皇居内で大嘗祭を挙行しているので、皇室的には、二人とも正式な天皇である。睦仁親王は國體天皇、明治天皇は政体天皇である。 ●堀川辰吉郎は、世界國體天皇となり第二次世界大戦を指揮。日本の負け戦を決めたのも、憲法第9条(戦争放棄)の条項を入れたのも、國體黄金ファンドを投入して国際連合を創設したのも堀川辰吉郎である。 |