黒板五郎の國體ワンワールド

落合史観に関する話題を取り扱うブログ

我ながら、分かり易く纏めてますナァ(自画自賛 笑)。過去の読者からのコメントに対する私の回答を全文引用しておこう。


我ながら、分かり易く纏めてますナァ(自画自賛 笑)。過去の読者からのコメントに対する私の回答を全文引用しておこう。
2018年10月17日(水) 晴れ
 
オリジナルの読者コメントと私の回答は、以下の記事のコメント欄である。記事の本文は古い内容(落合莞爾先生と出会う前の未熟な私が書いた記事)なので無視して良い。取り上げた投稿コメントは、本文をアップした1年9ヶ月後に届いたコメントである。
 
 【歴史】明治天皇は、やはり大室寅之祐だった。北朝から南朝に戻った。
 
以下、コメント部分(私の回答部分)を全文引用する。
なお、戴いたコメント投稿部分は、投稿者は「Kさん」とし、投稿者御本人の表現を丸ごと引用するのも憚られるので要約した形で掲載する。
 
〜〜〜以下、全文引用。〜〜〜
 
2018/09/23 17:15
南朝説を指示する人は、毛利家が大室一族を保護していたと言うが、毛利家は北朝の忠臣だったのに、なぜ南朝の大室家を保護したのか理由を誰も説明しない。
 
2018/09/23 17:24
南朝の子孫を自称する子孫は、熊沢天皇を始め各地に何人もいるのに、記録が何もない大室家だけが本物扱いされるのが不思議。熊沢一族が偽物で大室一族が本物という根拠はあるのだろうか?
 
私の回答 2018/09/23 20:31
Kさん、コメント有難うございました。
 
熊沢一族の話は、私は名前を聞いた事があるだけで、全く知らないので、本物/偽物の話も全く分かりません。
ただ、南朝北朝という区分け自体がナンセンスであることは、落合莞爾先生のご著書、および、講義により良く理解しました。
だから、南朝だ、北朝だと言って騒いでいる方々自体を、滑稽に感じます。
そもそも、南朝北朝と言う議論は、北条幕府が煽って両統迭立をさせて、共に力が弱った両統をうまく支配しようとして作り出したものらしいですから、余り意味がありません。
皇室側は、馬鹿じゃありませんから、そういう北条幕府の思惑を認識した上で、あたかも南朝北朝が対立しているかの様な表向きのポーズを取りながら、水面下では、南北一本化を図っていたのですから。
そもそも、後醍醐天皇(96代天皇南朝)と後伏見天皇(93代天皇北朝のベースとなっている天皇)は、共に、後宇多天皇(91代天皇)の子供であり、二人は双子だったのですから、後伏見天皇の息子である光厳上皇北朝)、光明天皇北朝)も実は後宇多天皇南朝のもと)の血統なんですよ。
崇光天皇北朝に至っては、後醍醐天皇南朝)の皇子である護良親王の実子なんですから、バリバリの南朝血統なんです。その後に誕生する伏見宮家も南朝です。
閑院宮家も南朝なんです。そもそも、北朝なんて、北条幕府を欺くための仮面みたいなもので、北朝血統の実体なんて無いんですよ。伏見天皇(92代)の血統は、花園天皇(95代)で途絶えてますから、後の天皇今上天皇に至るまで全て後宇多天皇(91代)の血統なんです。護良親王の血統と言ったほうがより正しいですけど。
だから、北朝説、南朝説なんて言って騒いでいる事自体が滑稽なんです。
これは、想像の話じゃなくて、皇室が言ってる事だそうです。
下のURLに、その当たりの話と、真の天皇家系図を紹介しているので、参考になるかも知れません。
 
南北朝の天皇の系図20180730.pdf - Google ドライブ
 
2018/09/23 21:36
・北条幕府とは何? 鎌倉幕府のこと?
南北朝論争がナンセンスなのは、私もそう思う。
・知りたいのは、何故、毛利家が大室一族を保護した事になっているのか。
・落合氏、鬼塚英昭氏の主張を聞いても、長州出身だから毛利家が絡んでいるんだろうと言ってる様にしか聞こえない。
 何故、毛利元春の時代から北朝に仕えた毛利家が南朝の子孫を保護するのか理由が分からない。
大室寅之祐南朝の子孫だということを、どうやって確認できたのか?
明治天皇がすり替わった時期が何時なのかも分からない。
 
私の回答 2018/09/23 23:25
Kさん、コメント有難うございます。
 
「北条幕府」と書いたのは、鎌倉幕府において実質的に北条家が執権として取り仕切っていた時代の事を、そう表現してしまいました。
 
毛利家が何故、大室家を保護したのかは、勉強不足で私には答えられませんが、
西行法師(平安時代北面の武士だった佐藤義清(のりきよ)が出家した後の名前)が、日本国内を行脚して佐藤甚兵衛ネットワークと言うのを作った事は、落合莞爾先生から教えて戴きました。
「佐藤甚兵衛ネットワーク」という呼び方は、落合莞爾先生の命名だとは思いますが。
いわゆる、國體ワンワールドのネットワークですね。佐藤甚兵衛と名乗る人たちが全国の各拠点に根を張っているそうですが、周防国田布施にも佐藤甚兵衛ネットワークの拠点があったそうです。
佐藤家ですね。長男が佐藤信さん(岸家に養子に入って岸信介さんとなり、総理大臣となってます。)、次男が佐藤栄作さんですね。この方も総理大臣になってますね。
 
毛利家が大室家を保護したかどうかは、勉強不足で分かりませんが、周防の佐藤甚兵衛ネットワークが大室家を保護した事は、確か、落合莞爾先生から伺った気がします。
  
大室家は、護良親王後醍醐天皇の皇子)の第一皇子である興良(おきなが、または、おきよし)親王が、護良親王の命により、朝鮮半島からの帰化人の基地的位置付けになっていた周防国を監視するために、周防国に派遣されましたが、その末裔です。
周防国を治めていた大内氏朝鮮半島からの渡来民だったので、大内氏を慕って朝鮮半島から渡来民が周防国に集まって来たという歴史があるそうです。
 
大室寅之祐護良親王の子孫である事は、代々の皇統で引き継がれて来ているそうです。皇統(皇室と同意だと思います。落合莞爾先生は、「皇統」という言葉を使います)は、護良親王の直系男系の皇統図を現在に至るまで全て管理されています。と、落合莞爾先生が京都皇統から教えられています。実は、落合莞爾先生はもとは井口莞爾という名前だそうですが、護良親王と井口家の娘の間に出来たのが益仁親王、のちに光厳上皇の皇子として皇籍に入る時に興仁親王と改名し、北朝3代天皇となって崇光天皇になる方です。
そして、落合莞爾(井口莞爾)先生も護良親王の末裔である事が、皇統で管理している系図に記録されているんです。だから、京都皇統が落合莞爾先生に白羽の矢を立てて、真実の歴史をここいらで世間に知らしめる役割を担わせたわけです。
何故、皇統が、護良親王の血統をずっと管理しているかと言うと、それは、1333年頃に後醍醐天皇、文観らが持明院統大覚寺統の統合を決めた時に、以降は護良親王の直系男系のみに天皇践祚の資格を限定すると決めたからです。そして、合一となった100代後小松天皇以降は、今上天皇に至るまでこのルールが堅持されています。だから、皇統は、護良親王の血統記録を厳重に管理・引き継ぎして行く必要がある訳です。
 
元々、長州藩は、朝鮮半島系の大内氏と毛利氏の連合藩なんだそうですが、毛利氏が、大内氏朝鮮半島系)を抑える役目を
担っていたと言うような話も聞いた様な・・・。ちょっと記憶が定かではありませんが。
 
明治天皇が大室家の子孫に代わった件は、私がここで説明するよりも、落合莞爾先生の書籍を直接読まれたほうが良いと思います。
岩倉具視が、真実を隠すために二通りの陰謀論伊藤博文孝明天皇と睦仁親王を殺害したとか)をワザと流布したので、
その陰謀論に振り回されている方々が多いですが、睦仁親王大室寅之祐の入れ替えは、実は、大室寅之祐が生まれる前から皇統で計画された事なのです。
そして、孝明天皇も睦仁親王も、実は明治天皇が即位した時点で死んでいません天皇即位の儀は、睦仁親王大室寅之祐が二人とも同じ日に皇居内で執り行われたそうです。大室寅之祐が政体天皇である明治天皇となり、睦仁親王が國體天皇を即位されました。
即位前の一時期は、二人とも京都堀川御所で一緒に過ごし、そこで大室寅之祐帝王学を学んだそうです。
以降、政体天皇明治天皇江戸城に入られ、國體天皇の睦仁親王と父親の先代國體天皇だった孝明天皇は、京都堀川にある
本圀寺(日蓮宗水戸徳川家菩提寺)の境内に秘密裏に造営された堀川御所に残りました。
ついでにもう一つ。中丸薫さんの父親である堀川辰吉郎は、睦仁親王の実子であり、睦仁親王から國體天皇を引き継ぎました。
第二次大戦当時は、堀川辰吉郎さんは世界國體天皇となっており、国連を創ったのも堀川辰吉郎さんだそうです。
 
政体天皇、國體天皇の二本立てに明確に分けた理由は、1815年のウィーン会議で欧州王室連合より、どうしても日本皇室に王室連合に入って貰いたいと言う事が決定されたため、鎖国幕藩体制の日本は早急に開国&立憲君主制議会民主主義国家に変えて行く必要があったからです。
 
これ以上は、書いても書いてもキリがないので、是非とも、落合莞爾先生のご著書をお読み下さい。
目からウロコ間違いなしだと思いますよ。