「本能寺の変」の真相
2018年8月6日(月) 晴れ
参考文献:「京都ウラ天皇と薩長新政府の暗闘 明治日本はこうして創られた(落合秘史IV)」(落合莞爾著)
【日本の宗教(仮に日本教と呼ぶ)】 (p222~p223)
- 日本教の実体は、神仏習合。
- 日本列島に自然発生した神道は、稲作農業をベースに村落共同体の安寧を祈る素朴な信仰。
- 中身は、特定氏族の祖神を祀る氏神信仰と、大自然に潜む精霊を尊重、畏怖、思慕する自然信仰。
- ここに、6世紀の欽明朝の時に百済から伝わってきたのが仏教であるが、自然信仰と祖先崇拝の神道文化のフィルタを通して仏教を受け入れたため、インド思想に潜む輪廻転生思想を受け付けず、祖先崇拝の基盤に立って日本仏教を形成した。つまり、日本仏教の本質は、神仏習合。
- 紀元前1346年、エジプトでファラオ・アメンホテップIV世(イクナートン)が起こしたアマルナ革命は、オリエント伝統の多神教を否定。
アテイン一神教の神都・アマルナを建設した。
その目的は、多神教を奉じてファラオを凌ぐ勢力を持ったテーベの神官団を潰し、自らがアテイン一神教の唯一神官として絶対権力を握ること。 - アテイン一神教には多くの信者が入信したが、全盛期は長く続かず、テーベ神官団が復活して、アテイン一神教徒はアマルナから追放された。
- 追放された教徒達(アマルナ衆)はシナイ半島のカナーンに行かされたが、そこ(カナーン)でアマルナ衆が建国したのが、イスラエル王国(現在のイスラエルとは別物)。
その国教とされたアテイン一神教は、アマルナ衆が、シナイ半島の牧畜民ミディアン・ケニ族が奉じていた「我は我としてある」神に乗り換えたもの。これが、後のユダヤ教である。 - ユダヤ教からはキリスト教と回教が生まれるが、それらの中で最も熱心に日本への教化を図ったのがキリスト教のローマ・カトリック派。
- カトリックは、富の獲得を隠された宗教理念とするが、潜在的に貿易、植民地経営と一体になった経済宗教であり、その特色をさらに先鋭化した分派として出現したのがイエズス会。
【イエズス会の日本侵攻】 (p227〜p228)
- 1549年、バスク人のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した。
- イエズス会は、正面攻撃だけではなく、日本の宗教事情を調べ上げ、既成宗教を利用して列島侵入を図った。
- 1484年に大元宮を建てた吉田兼倶が、神仏習合の日本教から仏教要素を排除することを主張したのが吉田神道(唯一神道)であるが、吉田神道に侵入したイエズス会は、洗礼を受けた神職を通じて織田信長をそそのかし、既存仏教を攻撃させた。
例としては、長島一向一揆の征伐、比叡山の焼き討ちなど。 - 戦国大名は、イエズス会の商人から火薬を入手するためなら何でもするとばかり、カトリックの布教を許した。
更には、領民の奴隷輸出、外国商人への要港貸与など、国益に反する行動まで見境なく行った。
【本能寺の変の真相】 (p228〜p231)
- 日本を国家的な見地から調整していたのが國體天皇であった伏見宮。
伏見宮7代目・邦輔親王の皇子である邦茂王は、丹波国桑田郡千歳郷の郷士・安藤氏の籍に入り、安藤維実(維翁)と名乗ったが、その曾孫は後に伏見宮13代目・貞致親王となる。
話を邦茂王(安藤維実)に戻して、邦茂王(安藤維実)の子が、徳川家康を幕府開設に導いた天海僧正である。 - 天海僧正を徳川家康に引き合わせたのは、伏見宮9代目・邦房親王である。時に、天海僧正は45歳、邦房親王は31歳であったが、この二人が当時の國體天皇の役割を分担していたと思われる。
- このままイエズス会の侵攻を許していては、日本の國體が護持できないと判断した國體天皇・邦房親王は、明智光秀に命じて織田信長を始末させたと言うのが、本能寺の変の真相である。
実際に明智光秀に命じたのは、國體天皇の役割を邦房親王と分担していた天海僧正であろうと思われる。 - 國體天皇であった伏見宮の配下の武闘勢力は、太古以来タチバナ氏の護衛を勤めてきた安曇系真田氏と、大伴氏であったが、明智氏は土岐氏の分派であり、土岐氏も明智氏も実は橘氏である。
明智光秀は、國體天皇に仕える國體奉公衆であり、伏見宮の直臣であったが、1565年頃に、伏見宮貞康親王の命を受け、織田信長に仕えた。 - 本能寺で信長を始末した明智光秀は、小栗栖(おぐるす)村で殺害されたことになっているが、小栗栖村は現在の京都市伏見区小来栖小阪町であり、当時は伏見御領であるから、伏見宮直臣の明智光秀が、この地で殺される訳がないのである。光秀は、生きて何処かの寺に入ったと思われる。