ウバイド國體ワンワールドの起源
2017年9月2日(土) 雨
落合莞爾(おちあいかんじ)先生が取り組んでいる秘史(真実の歴史)の研究について、書籍やネットでの情報提供サービスで勉強中であるが、時間がある時に、このブログに概要を記録しておくことにする。
我々が、学校で習って来た日本史(多分、世界史も?)は、国家を統治するために便宜的に作られた歴史であり、真実の歴史ではないそうである。
落合先生は、孝明天皇(江戸時代最後の天皇)の直系である京都皇統より、歴史の真相に関する情報の提供を受け、真の日本史をまとめる事を京都皇統から託されているそうである。
出だしは、ウバイド・ワンワールドの起源についてのメモである。
- 人類最古の文明は、メソポタミア地方に起こったシュメール文明(楔形(くさびがた)文字の発明など)だとされているが、これは誤り。真実は、メソポタミア地方でウバイド人が起こしたウバイド文明が人類最古の文明であり、後から入って来たシュメール人がウバイド文明を引き継いだ。なお、楔形文字を発明したのはシュメール人。
- ウバイド人は、チグリス川、ユーフラテス川を堰き止めて、砂金を採取していた。彼らは、分業という考え方を既に持ち、分業と分業の間を結ぶ信用材として金(黄金)を使った。
- 5800年前(起源前3800年前)、ウバイド人は、メソポタミアの地を離れ、東西に別れて新しい土地を求めて移動した。移動ルートとしては、東西ともに、海路と陸路の2ルート、計4ルートで移動した。移動の発端となった理由(気候的な問題が発生したのか、砂金が取れなくなったのか、等々)は良く分かっていない。
- 各ルートの最終到着地(極)は以下。
ルート |
東ルート (海路) |
東ルート (陸路) |
西ルート (海路) |
西ルート (陸路) |
---|---|---|---|---|
極 | 日本(儺津(なのつ、現福岡)、 紀伊半島、ヤマト) |
羅津(らじん) (現北朝鮮の羅先特別市付近) |
スコットランド | アルモニカ半島 (現ブルターニュ半島) |
到達時期 | 紀元前1400年 | 紀元前100年 | 未稿 | 未稿 |
後の王朝 | 日本皇室 | 同左 | ケルト王朝 | 同左 |
遺伝子 (Y染色体) |
D1b,または、R1b(旧人類) | 同左 | R1b(旧人類) | 同左 |
- ウバイドは、東(スコットランド)、西(羅津)の両極を維持することで、ウバイド王統を継続させて世界王室連合を保って来ている。片方の血筋が途切れ掛かった場合には、他方から継承者を渡らせることで維持。
- 東極の日本において、儺津(なのつ、現在の那の津(福岡市))から上陸したウバイド人は、地元の安曇縄文海人と混淆し安曇王権を建てる。
- 紀元前50年頃の安曇王権の族長だったイハレ彦の頃、大陸での騎馬族の台頭を察知し、海を渡っての騎馬族の来襲に備えるために、王権の勢力地図を後方に広げることにした。
- そこでイハレ彦は、瀬戸内海を東進し、先住の部族を退けて奈良盆地に入ったあと、ヤマト王権を建てた。
これが日本初の中央政権であり、イハレ彦は初代天皇である神武天皇となった。 - ちなみに、この時の騎馬族が、実は東ルート(陸路)で移動して来たウバイド人であった。後年、同じウバイドだと分かり、ヤマト(日本)と羅津(大陸)の交流が始まる。
- 10代・崇神天皇は大陸側から即位した天皇。ただし、陸路系統の人だったか、海路(日本)側から朝鮮半島に渡らせた一団が陸路系統と交流し大陸にいたのかは記憶が曖昧であり、もう一度、本を読み直さねば(笑)。