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【國體】氷河期後の地球人類をリードする「ウバイド」の起源


【國體】氷河期後の地球人類をリードする「ウバイド」の起源
作成:2017年1月1日(日)
更新:2022年5月26日(木)
 
落合莞爾先生が取り組んでおられる真実の歴史・國體ワンワールド史観
 
この國體ワンワールド史観の起源とも言える「ウバイド人」の起源について、落合莞爾先生の書籍等の情報をもとに整理した。
 
ウバイド人」という名前は、世界で認知されている学術的な正式名称ではなく落合先生が命名された名前であるが、その命名の経緯は下の方で説明してある。
 
先に書いておくが、日本の天皇家のルーツは、このウバイド人である。
そして、落合莞爾(本名:井口莞爾)先生ご自身も、96代)後醍醐天皇の直系男系子孫であるから、ウバイド人の血統である。
 
【1】氷河期[~1万年前(BC8000)]
 
7万年前に始まり、1万年前(BC8000年頃)に終わった最後の氷河期をヴュルム氷期と言うそうであるが、その氷河期を生き抜いた人類(仮に旧人類と呼ぶ)がいたらしい。
旧人類の居住地は、太陽との距離の関係で氷結しなかった中央アジアの高山地帯(イラン・イラク辺りの高山地帯)と、同じく大洋のため氷結しなかった太平洋の沿岸(今の日本列島)だそうである。
 
中央アジア高山地帯旧人類の説明については、落合莞爾先生の書籍の一部を引用する。以下。(※引用中の「ウバイド」という言葉の説明は、下の方に出て来る。)
 
(引用元:『天孫皇統になりすましたユダヤ十支族~「天皇渡来人説」を全面否定する~』のP36)
 
”このウバイド系人は、族種として一万年の歴史を有すると伝えていますから、前八〇〇〇年ころに終わる最終氷期(ヴュルム氷期)を生き抜いてきたことになります。当然、世界中の高山地帯に集住して厳しい気象を凌いだわけで、そのためか、天体測量を基とした測量術に長ける一方、高度な地質学的知識を有して鉱物資源の情報に詳しく、動植物の医薬的効能に関する高度の知識を蓄積していました。ようするに修験者(山伏)です。”
 
この地域の旧人類の文化的な側面での大きな特徴は二つ。「分業」と、分業による各々の生産物の交換手段として中間財(信用財)を使う(中間財を介して交換する)という考え方である。即ち、この地域の旧人類は、現在の「通貨」と同様の文化を既に持っていたと言う事である。
 
信用財としては、鉱物学に長けていた事から、腐らず、熱処理等で形を自在に変えやすく、しかも希少価値があるものと言う事で、「金(黄金)」を使った。これが、現代まで踏襲されている訳である。
 
【2】ウバイド文化[7500年前(BC5500)~5800年前(BC3800)]
 
中央アジアの高山地帯で約1万年の氷河期を生き抜いた旧人類は、氷期が終わると地表に降りて新しい生活を始めた。場所は、メソギリシャ語で「中間」)、ポタミアギリシャ語で「川」)、即ち、メソポタミア(大河で挟まれた地域)の小高い丘であった。丘の名前はウバイドの丘(テル・アル=ウバイド)、川の名前はチグリス川ユーフラテス川である。
 
このメソポタミア地区に降りて来た旧人類について、説明上の利便性のために、落合先生は、ウバイド人という名前を付けた。
 
そして、7500年前(BC5500)、ウバイド人によりこの地区で発祥したのが「ウバイド文化」である。Wikipediaにも載っている。
 
「ウバイド文化」ではなく「ウバイド文明」と言っても良さそうなものだが、この点については、以下のとおり、落合先生が言及されている。
 
●ウバイド文明は、物質本位ではなくて人間の本質である思考をベースとした文明である。「分業」と、それを繋ぐ「信用財」という高度な社会の形成である。言ってみれば、「物質文明」ではなく、「精神文明」である。発明した「モノ」や「巨大な建造物」と言った「物質文明」では無い。
 
●後世(19世紀)において世界の主役となった西洋人が、歴史を纏めるに当たり、有色人種を蔑視して、人類初の「文明」を有色人種のウバイド人が開いたとは言いたくなかったので、後からこの地に入って来てウバイド文化を引き継いだシュメール人(白人)、5200年前(BC3200)に世界初の「文字(楔くさび形文字)を発明したシュメール人の文明をメソポタミア文明、または、シュメール文明とし、ウバイド人の方はウバイド文化としたのではないか。

《ウバイド文化の特徴》

ウバイド文化の特徴は、車輪銅器灌漑農業である。
 
灌漑農業とは、沼地を干拓(乾燥地化)して農作地を造成し、そこに水路を構築して水を供給する事(灌漑)により実現させた農業のことである。
そのためには、水路に微妙な高低差を付けて、水が上流から下流に滞りなく流れる様に水路構築する必要があり、高度な「測量」と「設計」の技術が必要であったが、ウバイド人は、氷河期を高山地帯で生き抜いた一万年の歴史の中で、その技術を身に付けていたのである。
 
ただし、ウバイド人にとって、灌漑事業には、農業とは別の目的があったのである。それは、分業社会の前提となる信用財の確保、即ち、黄金の採取である。
ウバイド人にとっては、灌漑農業は、黄金採取の副産物として捉えていたのではないかと思われる。黄金採取については、別途、下の[ウバイド人と黄金]のところで書く。
 
干拓により造成された農作地は、集まって来た人達に無償で分け与えて行ったため、そこに多くの人が集まる事になり、文明が発祥する下地となった訳である。

《ウバイド文化の本質》

ウバイド文化の本質は、精神性情報性である。
 
とは言うものの、どういう意味なのかを説明するのは非常に難しいので、落合先生の書籍の中から引用する。以下。
 (引用元:『天皇とワンワールド(国際秘密勢力)~京都皇統の解禁秘史~』のP64)
 
”「ウバイド文化」の本質は、文明であるが「技術としての文明」ではなく「思想を要素とする文明」と考えます。民族の枠を越えて広がったのは、その本質が「モノと結びついた技術」ではなく、「モノをどのように見るか、コトをどのように考えるかという思考と情報」だったからで、その意味で「特殊な文明」と視るのです。
 つまり、「ウバイド文明」の本質は「精神性」と「情報性」で、それが民族や文化の枠を超えて東西に広がり、やがて人類社会に、ワンワールド(国際秘密勢力)としての存在を確立したのです。”

《ウバイド人の特徴》

ウバイド人達の特徴は、波長が合う以心伝心など、「精神波共振共鳴」で繋がっている事だそうである。
 
精神的な繋がりであったため、文字等の「形」で情報交換するのではなく、波動で分かり合うという民族であったらしい。
故に、ウバイド人は「文字」を持たず、従って記録も残さなかったので、西洋人の価値観(「精神」より「物質」重視?)からか、「ウバイド文明」と言う程の扱いを受けず「ウバイド文化」とされたのかもしれない。
また、「文化」は生活様式に焦点を、「文明」は技術に焦点を当てた概念なので、西洋人の価値観では「生活様式」よりも「技術」を重視したとも言える。
 
「波長が合う」、「精神波」、「共振共鳴」と言っても、多分、我々 一般人にはピンと来ないと思うので、上の《ウバイド文化の本質》の説明方法と同じく、落合莞爾先生の書籍の説明を引用し、それを読んで理解して戴くのが良いと思う。
と言うのも、落合莞爾先生は、今上天皇と同じく大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王(96代 後醍醐天皇の皇子)の直系男系子孫であり、従って、落合先生ご自身がウバイド人の血統(末裔)なのであるから。
 (引用元:『天皇とワンワールド(国際秘密勢力)~京都皇統の解禁秘史~』のP65~P66)
 
私見では、ウバイド文化と文字との間には一種の相反関係があるように思われてなりません。
 それは、ウバイド人は相互の意思疎通に言語的手段を重視しなかったからです。つまりウバイド人は、コミュニケーションの原則を「以心伝心」すなわち精神波の共振共鳴に置き、詳しい内容を伝える必要がある場合には音(言霊ことだま)を用いた、と推察するのです。
 社会的分業が発達すると、コミュニケーションの内容が複雑化するため、「以心伝心」はもちろんのこと、記録に遺せない音響も不十分となり、それを補うために記録性のあるトークン(証票)やエンブレム(形象)を用いる段階に至り、文字の発生を促します。
 ウバイド人が、その段階でもなお文字を用いなかったのは、精神の根底にシャーマニズムがあり、論理よりも直感を重んじたウバイド人は、言霊をコミュニケーション手段としたからです。
 音響の波動を聴覚で受け止めて物事を直覚する「言霊」は、受け手が視覚で見た文字を知性により論理的に判断する「文書」とは、まったく異なるコミュニケーション手段です。”

 
 (引用元:『天皇とワンワールド(国際秘密勢力)~京都皇統の解禁秘史~』のP66~P67)
 
”自然現象と精神活動のすべてを、波動によって理解・把握する「波動文明」に立っていたウバイド人は、社会活動の基本を人間相互の以心伝心に置き、それを補うものとして、言霊すなわち音響と、絵文字すなわち形象を用いたのは、モノゴトをあらかた伝えるには、これだけで十分だったからです。
 またウバイド人の抽象化能力は、デジタルな数値よりも数値の相互関係を重視して考察する代数学や、アナログな相似関係と位相(相対的位置関係)を課題とする幾何学に発展し、これを表わすのにトークン(証票)やエンブレム(形象)を用いたと考えられます。
 皇室の御紋章として周知の「十六弁菊花紋」や、呪符のドーマン(九字くじ)やセーマン(晴明桔梗)などは、ウバイド文化に起源を有すると考えられますが、私見はさらに、日本の各家が使用する家紋の起源もウバイドにあるとみております。逆に言うと、家紋こそ日本列島がウバイド文明の東極であることを示す証拠なのです。”

《ウバイドの社会》

ウバイド人の社会は、以下の3部族により構成され、各部族が分業により生活のための労働を分担し、信用財と言うモノを介して各々の分業の成果を交換し合った。
 
 ●定着農民(穀物、家畜といった農産物を作った)
 ●遊牧民(家畜を追ってテントで暮らした)
 ●漁労民(葦で作った家で暮らす)
 
信用財としては、希少価値の高い「黄金」と、人間の生老病死に役立つ「罌粟(けし)」を用いた。
黄金と罌粟の価値基準は、”同じ重さを同じ価値とする”(金1gと罌粟1gが同価値)と言う事だったそうである。

《ウバイドと黄金》

人間社会の本質は分業社会である事を、ウバイド人は長い歴史を通して実感していたが、分業社会に必須である「価値の交換手段」としての信用財の重要性も分かっており、黄金の採取方法も身についていた様である。
 
メソポタミアの地に降りて来たウバイド人は、表向きは灌漑農業を進めるフリをして、干拓と水路整備をしたが、これは、干拓地から流れ出る河口部での砂金の採取が本命の目的だったのである。具体的には、干拓の堰から水が流れ落ちる地点の底に穴を掘り、川の水に含まれて流れてくる砂金が掘った穴に溜まる様にして、砂金を採取したそうである。
 
【3】ウバイド人の一部がアフリカ大陸に移動[7000年前(BC5000)~]
 
ウバイド人の一部が、[7000年前(BC5000)]に黄金を求めてメソポタミアの地からアフリカ大陸のナイル川流域のヌバ(現在のヌビアスーダン辺り)に移動していた事が、某所(多分、國體天皇筋)から落合先生への口伝により判明したそうである。
 
この地でウバイド人が遭遇した部族がタカスであり、以降、現代に至るまで、一部は味方勢力(ワンワールド國體勢力)となり、また別の一部は敵対勢力(国際金融連合など)となる部族である。なお、タカス族の祖先はフルリ人だそうである。
 
ヌバの地では、実行力に優れたタカス族は、ウバイド人の傭兵として砂金採取に携わったのである。即ち、古代エジプト文明は(も)、メソポタミアから移動してきたウバイド人によって興された文明だったのである。
 
その後の古代エジプトでのタカスの活躍については省略するが、アメンラーを主神とする多神教の終末再生思想のためのミイラ造りに尽力し、テーベ神官団の一部を構成したそうである。
 
【4】ウバイド人の東西への移動[5800年前(BC3800)]
 
[5800年前(BC3800)]、ウバイド人の文化は急激に衰退して行った。その理由は、気候の変動により乾燥が広がり、人間の活動が不可能になった(Wikipedia)とされているが、真偽の程は分からない。
ただし、落合莞爾先生の書籍『天孫皇統になりすましたユダヤ十支族~「天皇渡来人説」を全面否定する~』に依れば、砂金採取が本来の目的であったウバイド人にとって、干拓が一通り終わり砂金採取の効率が低下して来たため、次の砂金採取の地を求めて東西に分かれて行ったそうである。その際の移動ルートについては、陸に強い遊牧民大陸ルートで、海に強い漁労民は海洋ルートで、それぞれ東西に分かれて行ったと説明されている。
 
最終到達点は以下の通りであるが、移動中または最終地にて、新たな文明を興している
 
■1 大陸ルートで西に進んだウバイド人
ウクライナを経由して西欧に向かい、アルモリカ半島(現在のブルターニュ半島)に到達。ここがウバイド人の西極となる。
 
【2022/5/26追記】
まさに現在進行中の「ロシア・ウクライナ危機」の舞台・ウクライナは、國體ワンワールドの重要な拠点であった(現在も)。採取した國體黄金ファンドの貯蔵ポイント、東西のウバイドを繋ぐステップロードの両極(西のウクライナ~東の羅津らじん、現在の北朝鮮豆満江の河口の羅先))のうちの西極である。
 
■2 海洋ルートで西に進んだウバイド人
エーゲ海を経由して西欧に向かい、一旦はブリテン島(現英国)に上陸。その後、アルモリカ半島に渡り、大陸ルートのウバイド人と合流した。これが、後のケルトである。
 
■3 大陸ルートで東に進んだウバイド人
中央アジアの陸路を東進し、到達したのは支那黄河流域である。ここの在地文明と融合して生まれたのが黄河文明である。
 
■4 海洋ルートで東に進んだウバイド人
海路でアラビア海を東に向かったウバイド人は、インド亜大陸の西岸(現パキスタン)を流れるインダス川の河口に到達。ここに上陸して、メソポタミアの時と同じ様に、干拓➪農作地造成➪水路構築をして、農作地を無償で現地農民に与え、自分達は砂金採取をした。これがインダス文明の発祥である。
 
なお、3400年前(BC1400)頃に塩害が生じたため、ウバイド人は、この地を棄てて再度、インド亜大陸沿いに東に海路を取り、マラッカ海峡南シナ海と経由して、日本列島に到達する。
日本に上陸したウバイド人は、同じく氷河期を生き延びた旧人類である縄文人と波長があったのか、争う事なく混交・混血し、その中の一部(北部九州、現在の福岡)の部族(安曇族、発祥は志賀島)が後(BC1世紀)に近畿に入ってヤマト朝廷を開いた。現皇室である。
 
【2022/5/26追記】
この記事を書いた時点では、ヤマト王権の初代天皇神武天皇)となるイハレ彦は、この安曇族の族長であり、神武東遷により北部九州から奈良盆地に移動してヤマト王権を建てたと落合先生より伺っていたが、最近、落合先生の弟子筋である鍋島直亮さんが、書籍「記紀からの解放(1)真相追究 蘇我氏と古代日本」において新説を出されており、それに依ると、イハレ彦の出身地は浜名湖北の引佐(いなさ)地区だという事である。「神武東征」は、任那から呼び寄せたミマキイリヒコイニエ(後の10代 崇神天皇)の九州~ヤマトの東遷「崇神東遷」を何らかの理由で「神武東遷」と偽ったという事である。落合莞爾説と鍋島直亮説のどちらが正しいのかは、私には全く分からない。
 
【5】メソポタミア文明の発祥[5500年前(BC3500)]
 
ウバイド人が[5800年前(BC3800)]メソポタミアの地を去った後に、入れ替わりに入って来たのがシュメール人である。
 
シュメール人ウバイド文化(文明)を引き継ぎ、更に、[5500年前(BC3500)]にはメソポタミア最南部にウルク文化を興隆した。このウバイド文化ウルク文化を併せてシュメール文明、またはメソポタミア文明と呼ぶ。
因みに、シュメール人が楔(くさび)形文字を発明するのは、5200年前(BC3200)である。
 
 
《本稿に関係する記載のある文献》
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