黒板五郎のウバイド國體ワンワールド

落合史観に関する話題を取り扱うブログ

富士通がウバイド國體ワンワールドと関係があったらしい。ビックリ。


富士通がウバイド國體ワンワールドと関係があったらしい。ビックリ。
初版:2018年4月25日(水) 雨
更新:2020年2月20日(木)
 
今、発刊されたばかりの落合莞爾さんの最新本「落合・吉薗秘史(4)ワンワールド特務・周恩来の日本偵察 東アジアの勢力図を決した吉薗周蔵の奇縁」を読み始めたところであるが、私が36年間お世話になった富士通が、ウバイド國體ワンワールドに繋がっている事が読んでいて分かった。
 
まだ、1/3弱しか読んでいないので大した情報量ではないが、以下の様な繋がりである。
 

  説明
明治時代の國體参謀総長だった陸奧宗光の父親で、紀州藩勘定奉行だった伊達宗広(千広)出自は、ハプスブルク家(欧州)だった。
都城藩士上原勇作(後の元帥陸軍大将)は、堀川御所の國體天皇(偽装崩御した121代 孝明天皇)の側近として仕えた公家・堤哲長(こちらも、偽装死したあとに堀川御所に仕えた)の妾であるギンズルの甥であった事から、國體天皇により抜擢され、砲工将校としてフランス留学を拝命。
在仏中に、アルザスハプスブルク系ポンピドー家の娘・ジルベールと秘密結婚し、ハプスブルク家(系列のポンピドー家)の女婿となった。
國體ワンワールドが、國體黄金を投資して支那に建てたのが天津南海学校王希天、呉達閣、周恩来南海三羽烏と呼ばれていたが、3人とも日本留学していた。これを動かしていたのが欧州國體のポンピドー牧師だった。
ポンピドー牧師は、上原勇作の秘密妻ジルベールの兄であるが、上原とジルベールの間に出来た娘を連れて来日し、青山教会のヘッドになっている。この娘が、甘粕正彦の恋人になる。
ポンピドー牧師が天津を拠点にして日本を見ていた目的は、日本でコスモポリタンを養成することだった。
ポンピドー牧師は、陸奥宗光の息子で、元ベルギー駐在公使だった陸奥広吉伯爵と通じていたが、これは、陸奥宗光の父・伊達宗広がハプスブルク家出身だった事に関係している。
ハプスブルク家は鉱山業から興っているが、陸奥家も鉱山業に通じている。陸奥宗光の次男・潤吉は、古河市兵衛の養子となり、古河鉱業を継いでいる
その後、古河鉱業と独)ジーメンスが創った合弁会社富士電機であるが、「富士」は単なる当て字であり富士山とは全く関係なく、古河の「フ」とジーメンスの「ジ」をくっつけて付けた名前。(富士通社史にも出て来る。)
古河とジーメンスが合弁事業を始めたのも、ハプスブルク家繋がりだったと思われる。
富士通は、1935年に、富士電機株式会社の通信部門が独立して創った子会社。最初の社名は、富士通信機製造株式会社。途中で、頭3文字を取って「富士通」と社名変更した。
富士通の元取締役・古河建純さんは、私が1977年に入社した時の同じ部の隣の課の課長さんだったが、古河財閥4代目当主の四男である。
リンク先の写真を見れば分かるが、かなりガッチリとした体格、長身の方であり、彫りの深い顔立ちであった。この本によると、ハプスブルク家(欧州)出身の伊達宗広さんの血を引いていると言うことなのかも知れない。ちょっと飛躍しすぎかもしれないが(笑)。

以下、ウバイド誕生からの流れを書こうと思ったが、疲れたので途中で止めた(笑)。

  説明
0 ヴュルム氷期(〜1万年前)旧人類(氷河期に適応して進化した新人類に対し、氷河期以前から変わらず生存し続けた人類を旧人類と呼んでいる)の一部が、太陽熱等の関係で氷結しなかった中央アジアの高山地帯に棲息していたが、高山環境での厳しい気候を凌いだ結果、天体測量をベースとした測量術、地質学的知識を習得。鉱物や植物の採取により、鉱物・食物の知識を蓄積。動植物の医学的効能に関する知識を蓄積。
0 同じ時期、太平洋岸も氷結しなかったため、大陸より大型動物(ナウマン象など)が太平洋岸に移動。移動の最終地点は、現在の日本列島である。
ここに棲息した人類も旧人類であったが、大型動物を捕獲して食べていた。ここに狩りを生業とする人類(縄文人)が誕生した(4万年前)。
1 紀元前8000年(1万年前)頃、ヴュルム氷期が終わり、中央アジアの高山地帯からメソポタミアのウバイドの丘に下りて来た旧人類がいた。[落合莞爾さんの命名で、ウバイド人と呼ぶ。]
2 紀元前5500年(7500年前)頃ウバイド文明(文化)の誕生。ウバイド人は、チグリス川、ユーフラテス川を堰き止めて砂金を採取。堰き止めた事(干拓)により出来た土地は、農地として他の部族に無償で与えた。そこで誕生したのがメソポタミア文明である。
ウバイド人は、採取した砂金を信用財として使う事で分業の文化を生み出した。即ち、金(ゴールド)を信用財とした物の交換、それによる分業という文化は、メソポタミア文明の始めから既に存在していた。
3 紀元前5000年(7000年前)頃、ウバイド人の一部は、アフリカ大陸のナイル川流域に移動し、同様に砂金採取した。当時の地名はヌバ(金を意味する)、現在の南スーダン辺り。メソポタミア文明の発祥から約500年後、同じ様にして古代エジプト文明が発祥する。
この地でウバイド人が傭兵として使ったのが、同じくこの地に渡ってきていたフルリ人の一系統であるタカス族であった。
4 紀元前3800年(5800年前)頃メソポタミアでは、ウバイド文化が急激に衰退。気候変動(乾燥気候)で人間生活が不可能になったとされているが、本当の所は不明。
ウバイド人は、後からメソポタミアの地に入ってきたシュメール人にウバイド文化を引き継ぎ、自分たちは、砂金採取のための新しい川を求めて東西に分かれて行った。東西ともに、海洋漁労民(海路)と騎馬遊牧民(陸路)の各2ルートに分かれて移動。
- 東/海路:インダス川に到達。この地で砂金採取を始め、インダス文明を興した。
- 東/陸路:ユーラシア大陸の中にも、カスピ海アラル海と言った「海」があり、そこを伝って河口で干拓、砂金採り、農地開拓をし、徐々にユーラシア大陸内を東に進む。
最終的には、中原(ちゅうげん、黄河揚子江の間あたりの平原)まで進み、砂金採取。ここに生まれたのが黄河文明
- 西/海路:黒海小アジア(トルコ)、エーゲ海を抜けてギリシャイベリア半島へ。
- 西/陸路:ウクライナを通ってヨーロッパへ。
5 紀元前1400年(3400年前)頃、インダスのウバイド人(東/海路ルート)について、塩害が発生したためインダスの地を捨て、次の地を求めて移動開始。インド洋沿岸を回り東南アジア、南シナ海を経由して日本列島に到達した。那の津(現福岡市)に到達したウバイド人は、その後、志賀島(現福岡市、「漢委奴国王」の金印が発見されたとされている九州と陸続きの島)を発祥とする縄文海民・安曇族と混血をして行った。
6 紀元前1世紀頃(京都皇統からの情報では紀元前50年頃)、安曇王権(現福岡近辺)の族長であったイハレ彦は、大陸側で勢力を増してきた騎馬民族鮮卑(せんぴ)、北狄(ほくてき))の事を察知し、来襲に備えて、基地・防衛ラインの縦化(奥深くする)を図る事を決断。瀬戸内海を東進し、先住の部族を討伐して奈良盆地(大和盆地)に入った。イハレ彦は、そこでヤマト王権葛城王朝)を建て、初代天皇神武天皇となる。 
7 175年頃、大陸からの騎馬民族の来襲を牽制するために、海洋民族系のヤマト王権騎馬民族に偽装するべく、朝鮮半島に進出してミマキ(任那城)で半島南部を実効支配していた安曇族の姫とウバイド系騎馬民族(扶余族)の王子を婚姻させ、その間に生まれた王子を以て任那天孫族を創り、日本に招聘して天皇を即位させた。(10代崇神天皇

以下、省略(笑)。
途中で止めたが、気を取り直してザックリと追記すると、皇統に、以下の様な大きな事象が続く。

8 4世紀頃、かねてより羅津(らじん、現北朝鮮豆満江河口)に秘匿していたウバイド國體黄金を護るために日本から羅津に渡っていた八幡族(八幡天孫の子孫であるホムダワケを日本に招聘し、天皇を即位させた。(15代応神天皇) 目的は、羅津からの國體黄金の移入と、任那からの邦人帰還による富国強兵
9 羅津から日本に入ったホムダワケ(後の15代応神天皇)と入れ替わりに14代仲哀天皇が偽装崩御して羅津に渡ったが、その子孫である雨国押開広庭(アメクニオシヒラキヒロニワ)539年頃、日本に戻り天皇を即位。(29代欽明天皇) 目的は、ヤマト王権の本格国際化
10 36代孝徳天皇の時代(650年代)、皇子・有間皇子(ありまのみこ)が偽装死のあと國體黄金を持参して渡欧し、アルザスに入る。そこで、メロヴィング朝フランク王国の執権だったピピン二世(中ピピンと同体(二人一役の関係)となって入れ替わる。
そして生まれた子供がカール・マルテルであり、トゥール・ポワティエの戦いで侵攻してきたサラセン勢力を撃退。
カール・マルテルの子・ピピン三世(小ピピンが、カロリング朝フランク王国を建国した。
その子・カールは、自らをカール大帝と称し、出兵により領土を拡大、800年西ローマ皇帝を宣言。フランク王国を新・西ローマ帝国とした。
11 1240年代、88代後嵯峨天皇の二人の皇子(89代後深草天皇、90代亀山天皇)が持明院統大覚寺統の二皇統に分岐する。
12 1330年代両統迭立持明院統大覚寺統が10年単位で交互に皇位継承する事)の問題(これに院政上皇天皇)が入るので、実権を握る治天の君天皇の父である上皇)と、天皇(お飾りの存在)が組み合わさり、実権を握るまでに40年(10年✕2代✕2皇統)掛かると言う問題)を解決すべく、96代後醍醐天皇が動く。(落合莞爾さんの命名で、大塔政略と言う)。具体的には、後醍醐天皇親王である護良(もりなが)親王の直系男系血統で皇統を一本化する。これは、日本の皇統のみならず、護良親王の子・孫が欧州に渡って興した王家(欧州大塔宮)皇位についても同じである。国内では、皇統の血統スペアとして世襲親王家を創設する(伏見宮)。
13 両統迭立により天皇の力が弱まる事を期待し、自分が支配力を持てると考えている鎌倉幕府の執権・北条氏を欺くために、見かけ上は、皇統が京と吉野の二つに分裂(学校史学では「南北朝」と呼ばせている)して争っている様に装い京・吉野の両統が手を組んで水面下で大塔政略を進めた。具体的には以下。
●京(北朝)側の初代天皇だった光厳上皇の皇子として、吉野(南朝)側・護良親王の実子である益仁親王(名前を変えた興仁親王)を皇籍にいれる。後の京(北朝)側3代目崇光天皇である。
●京(北朝)側の2代目光明天皇の実子・栄仁(よしひと)親王が、京(北朝)側3代目崇光天皇の皇子として皇籍に入り、初代伏見宮となる。
崇光天皇の実子である貞成(さだふさ)親王栄仁親王の皇子として皇籍に入れ、伏見宮貞成親王とする。これにより、後に永世親王家となる伏見宮護良親王の血統となった
護良親王紀伊国調月(つかつき)の豪族・井口左近の娘との間に出来た最初の皇子が後の崇光天皇であるが、2番目は井口家に返され2代目井口左近を継ぎ、3番目の皇子欧州に渡った。その渡欧した3番目の皇子の子孫が欧州大塔宮家ハプスブルク家の王位に着く事になる。
この3番目の皇子の男系子孫(年代的に、若しくは、)が、オーストリア大公であるエルンスト鉄公と同体の関係となって入れ替わり、ポーランドの王女であるツインバルカ・マゾヴィエツカとの間に出来た子供が、フリードリッヒ3世である。フリードリッヒ三世は、日本から運んだ國體黄金を使って、ハプスブルク家による神聖ローマ帝国皇帝の世襲を実現した。
14 ナポレオン戦争後の1815年ウィーン会議にて、欧州王室連合に日本皇室も加わって貰い世界王室連合を創立する事が決定。
欧州大塔宮を介して日本皇統にもそれが伝えられ、日本側では、(1)鎖国⇒開国、(2)幕藩体制立憲君主国 という大転換をスムーズに実現するための各種政略が動き出した。落合莞爾さんの命名で、これを堀川政略と呼ぶ。
その一つが、皇統を、(1)国内政治担当(政体天皇)と、(2)国際関係対応、國體黄金ファンドの管理運営(國體天皇)の二系統体制に移行する事。政体天皇として、周防国田布施に住んでいた護良親王の直系男系の末裔大室寅之祐護良親王の最初の皇子であり、周防国に派遣された興良親王の直系男系子孫)を京に呼び、天皇を即位させた。122代明治天皇である。政体天皇は、東京に移ることとした。國體天皇には、121代孝明天皇が偽装崩御し、京都皇統を創生して京都皇統の初代國體天皇となった。
以降、孝明天皇の皇子・睦仁親王が2代目の國體天皇、その実子・堀川辰吉郎が3代目國體天皇を継いで行った。堀川辰吉郎のあとは、一時的に昭和天皇が政体天皇と國體天皇を兼任したあと、堀川辰吉郎の実子である高松宮宣仁親王が國體天皇となった。高松宮殿下の薨去後は、喜久子妃殿下が代理を勤めたが、喜久子妃殿下の薨去後に、●●さんが新しく國體天皇に就いて現在に至っている。勿論、●●さんが誰なのかは秘匿されている。