仙洞政略について
初稿:2019年7月17日(水) 雨
【参考文献】
『落合・吉薗秘史[7] 三種の蝦夷の正体と源平藤橘の真実』
著者:落合莞爾(おちあいかんじ)
出版元:落合秘史刊行会(市販はされていない。)
【用語】
仙洞(せんどう)とは:
- 上皇の御所のこと。固有名詞(特定の建物の名前)ではなく一般名詞。
仙洞政略とは:
【仙洞政略の背景】
- 世界の各地で、農地の開発・整備が進み、農業の収益性が増した。
- その結果、農業のシステム化による定常的な収益確保を目的とした荘園が形成されることとなった。
- 荘園の資産価値を認識した國體ワンワールドは、荘園の所有権や収益権を、従来の信用財である「黄金」を補う存在として利用することにした。これが、土地本位制の始まり。
- 日本では、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が、大化の改新の翌年(646年)に改新の詔(みことのり)を発して、皇族・豪族による土地と人民の私有を禁じ、従来の荘園私有制から公地公民制に切り替えた。
- 670年の戸籍の作成を待って、大化の改新の際に発令した班田収授の法(貴族等に公地を支給し、税を徴収する制度)を施行開始した。
- 中大兄皇子は、國體大兄(大兄とは、國體ワンワールドの黄金ファンドを管理する日本のトップに与えらる場合がある称号)であったが、690年に37代斉明天皇(政体の天皇)が崩御したため、自らが政体天皇を践祚(せんそ。天皇の地位に着く事)し、38代天智天皇となった。
(落合先生は、書籍では、中大兄皇子を「國體大兄」と表現し、國體天皇とは表現していないが、「自らが政体天皇となって」と書かれているので、「自らが」の意味は、「國體天皇自らが」という意味だと思われる。従って、國體天皇の中大兄皇子が、政体天皇を兼務したと言う事だろうと思う。) - 天智天皇は、701年に大宝律令を制定し、国家統治の原理として公地公民制を宣言した。
- しかしながら、4世紀に羅津(現北朝鮮内)にいた八幡(はちまん)天孫族のホムダワケを15代応神天皇とするために日本に奉迎した時に、一緒に朝鮮半島から渡来してきた大量の移民が、数世代を経て膨大な人口になっており、6世紀の29代欽明天皇の頃には、稲作の進展も相まって農耕地が恒常的に不足する状態になっていたため、そういう状態での公地公民制は上手く回る筈もなく、さりとて、農地拡大しようにも「官」のパワーだけでは如何ともし難く、結局は民力に頼るしかなくなって「民間」による墾田開発が中心となった。
その中でも、藤原北家の勢力(貴族と荘園を護衛する武士)が台頭して来た。 - そのうちに、民間が開墾した農地に対して、「三世一身の法」や「墾田永年私財法」が適用されることになり、私領化へと進んで行った。
- こうして、結局、律令制は機能しなくなって行った。
- この様な背景の元に、國體が、再び荘園の公領化を図るために建てたのが仙洞政略である。
【仙洞政略の目的】
- 再び荘園の私領化が進み、藤原北家の摂関家を代表とする貴族と、大寺社勢力の私領化が進んだため、富が大貴族と大寺社に集まる一方で、公領の減少に伴う税収減で国家財政が逼迫するというアンバランスな状態に陥ってきた。
これを解決するためには、再度、荘園の公領化を実現して公私のバランスを調整する必要がある。これが、仙洞政略の目的の一つである。 - 律令制停滞の原因となった特定貴族への富の集中を解消し、兵農一致の武家社会に移行させる事が、仙洞政略のもう一つの目的である。
「兵農一致」とは:
- 農民に武器を持たせ、兵役に着かせる事。
- 欧州の中部、西部では、8世紀、カロリング朝フランク王国の頃に兵農一致の封建制度が成立した。
それから2世紀ほど後に、國體ワンワールドによって日本に持ち込まれ、兵農一致の封建制への移行政策を建てたのが仙洞政策である。
《参考》カロリング朝フランク王国
- カロリング朝フランク王国は、36代孝徳天皇(諱は「軽皇子(かるのみこ)」の皇子であった有間皇子(ありまのみこ)が、7世紀に日本から國體黄金ファンドを持参して欧州のアルザスに渡り、当時、メロビング朝フランク王国アウストラシアの執権であったピピン2世(中ピピン)と入れ替わった後、有間皇子(中ピピン)の孫であるピピン3世が、祖父が日本から持参した國體黄金ファンドを資金として建国した国である。
- 有間皇子(中ピピン)の子供は、侵攻してきたサラセン勢力をトゥール・ポアティエの戦いで撃破したカール・マルテルである。
- カロリング朝の「カロ」、カール・マルテルの「カール」は、孝徳天皇の諱である軽皇子の「軽(かる)」と繋がっている。
【仙洞政略の内容】
- 仙洞政略に踏み切る前の段階において、二人の天皇が以下の政策を実行したが、外戚である藤原摂家の利益と相反するため、思い通りに行かず失敗。
(1) 902年、60代醍醐天皇が、「延喜の荘園整理令」を発令し、荘園の新たな設置を制限、違法荘園の停止を試みた。
(2) 985年、65代花山天皇が、「永観の荘園整理令」を発令し、同様の試みをした。 - 1068年、71代後三条天皇が即位。170年ぶりの藤原北家を外戚に持たない天皇であったため、外戚の権力を基盤にしていた摂関政治に翳りが見え始めた。
- 1069年、後三条天皇は、「延久の荘園整理令」を発令。全国の荘園の一斉整理を開始した。
- 1072年の暮れ、後三条天皇は生前譲位して、第一皇子の貞仁人親王を72代白河天皇とすると共に、同じく摂関家を外戚に持たない第二皇子の実仁親王を皇太弟(白河天皇の次の皇位継承者)に指名した。
更に、皇太弟の実仁親王が即位した際には、第三皇子で実仁親王の同母弟である輔仁親王を自分(実仁)の皇太弟に指名する様に実仁親王に命じた。
即ち、自分が譲位したあとの三代先の天皇までを、摂関家と縁がない息子達で固めた訳である。 - 1073年、父親の後三条上皇が6月に崩御したため、白河天皇が親政を開始。
- 1085年、皇太弟(次の皇位継承者)の実仁親王が急逝したため、白河天皇は、自分の第二皇子・善仁(たるひと)親王を皇太子(自分の皇位継承者)とした。
その翌日、白河天皇は生前譲位して上皇となり、後継者である73代堀河天皇(善仁)を後見する名目で院政を開始した。これが院政の始まりである。 - 以降、白河上皇(法皇、72代天皇)➪鳥羽上皇(法皇、74代天皇)➪後白河上皇(法皇、77代天皇)と三代続く院政により、仙洞政略が開始された。
その後、私領の荘園➪公領化➪封建武士による管理という手順で律令社会から封建社会への転換が図られて行く事になる。
このあと、