黒板五郎の國體ワンワールド

落合史観に関する話題を取り扱うブログ

東西ウバイド國體ワンワールドの交流メモ


東西ウバイド國體ワンワールドの交流メモ
初稿:2018年1月15日(月) 晴れ
更新:2020年2月18日(火)
 
【前提知識】
國體ワンワールドとは
落合莞爾さんの講演映像〜ウバイド文化が東西に移動して西の極、東の極に達したお話
ヤマト王権(葛城王朝)の誕生
天皇の系図
  
【東西ウバイド國體ワンワールドの交流】
 

670年前後 有馬皇子(ありまのみこ)が、莫大な國體黄金を携えて渡欧。アルザスに入る。

有馬皇子について:

  • 640年に36代孝徳天皇の皇子として誕生。
  • 654年に孝徳天皇崩御するも皇位を継がず。代わりに、孝徳天皇の姉である35代皇極天皇(女帝)が、史上初の重祚(ちょうそ。同一人物が天皇退位後に再度、天皇を即位すること)で37代斉明天皇となる。
    有馬皇子が即位しなかったのは、渡欧が決まっていたからと思われる。
  • 有馬皇子は、渡欧のために658年に偽装死。その後、修験者の下で修業をした後に渡欧

渡欧の経路:

渡欧の目的:

渡欧後の経過:

  1. アルザスに入ったあと、メロヴィング朝フランク王国アウストラシア(現在のフランス東部、ドイツ西部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダ辺り)の執権・ピピン二世(中ピピン同体となった。
    【補足】同体とは、本物のピピン二世と入れ代わり立ち代わりしつつ、二人一役の関係になる事。
     
  2. 持参した國體黄金は、後のカロリング朝フランク王国建国に使われる。
    ・「カロリング」は、「カル」から来ている言葉。「カル」の字を当てるが、ウバイド人の別称である修験サエキの用語。
    ・有馬皇子の父親・孝徳天皇の即位前の名前は軽皇子(かるのみこ)である。
    「カル」は、カール、カルロス、チャールズ、カロリングなどの語源になっている。
     
  3. 686年に生まれた有馬皇子(ピピン二世)の子供がカール・マルテル
    彼は、父親からアウストラシアの執権を継いだあと、フランク王国ネウストリア(現在のフランス)を平定し、718年にフランク王国全体の執権となる。
     
  4. 732年、ウマイヤ朝サラセン勢力が欧州に侵攻したが、カール・マルテルは、トゥール・ポワティエの戦いでこれを撃退。
     
  5. カール・マルテルの子・ピピン三世(小ピピンは、メロヴィング朝フランク王国を廃し、カロリング朝フランク王国建国する。
     
  6. ピピン三世の子・カールは、弟のカールマンとフランク王国を共同統治したが、カールマンの死後、自らをカール大帝と称し、出兵により領土を拡大。
    800年に西ローマ皇帝を宣言し、フランク王国新・西ローマ帝国とした。
    最近のドイツ歴史学会は、このカール大帝の皇帝宣言を以て神聖ローマ帝国の創建としている。

 

1334年近辺 欧州大塔宮護良親王(もりながしんのう)の直系の王子、子孫が、渡欧してベルギーに入り定住する。

護良(もりなが)親王について:

渡欧の経路:

  • 未稿。

渡欧の目的:

渡欧後の経過:

  1. 護良親王が欧州に送った直系皇子の子孫が欧州大塔宮の一族となる。
     
  2. ベルギーを拠点として、毛織物業で力を蓄えた欧州大塔宮一族は、ペスト(黒死病)で人口が激減した欧州の各地で貴族となる。
     
  3. やがて、西のウバイド王統であるケルト王室と混淆し、欧州王家となる。
     

これにより、東西のウバイドの王統が、共に護良親王の直系となる。(大塔政略
 

xxxx年前後 欧州後南朝。欧州大塔宮の渡欧に随行した後南朝の王統、南朝武士の一党。。

執筆中
未稿
●●●●について:
渡欧の経路:
渡欧の目的:
渡欧後の経過:
 

xxxx年前後 仁孝天皇が偽装崩御して渡欧。

未稿
●●●●について:
渡欧の経路:
渡欧の目的:
渡欧後の経過:
 

18xx年前後 島津斉彬(なりあきら)が偽装死して渡欧。

執筆中
島津斉彬について:
・薩摩八代藩主・島津重豪(しげひで)の側室であるお千萬(ちま)の方は、公家の堤家の七代当主・堤代長(しろなが)の娘。その二人の間に生まれたのが九代藩主となる島津斉宣(なりのぶ)。斉宣の子である十代藩主・島津斉興(なりおき)の子が、十一代藩主となる島津斉彬である。
島津斉彬堤哲長(あきなが)は、共に、堤家七代当主・堤代長の四代孫。
渡欧の経路:
渡欧の目的:
・1806年に解体した神聖ローマ帝国の後を受けて、欧州社会を再構築すること。そのために、渡欧時に莫大な國體黄金ファンドを持ち込んだ。
・國體天皇・禅楽の密命を受け、1858年に偽装死しジュネーブに渡る。目的は、明治開国に備えて、憲法と条約の研究をするため。
渡欧後の経過:
 

18xx年前後 欧州北朝が日本に向けて放った「草」の一人がベルギー人のシャルル・ド・モンブラン(白山伯爵)

未稿
●●●●について:
渡欧の経路:
渡欧の目的:
渡欧後の経過:
 

18xx年前後 大室寅之祐帝王学指南役を日本に派遣。日本名は木戸孝允

未稿
 

18xx年前後 西郷隆盛が、偽装死して渡欧。島津斉彬の待つジュネーブに入る。

未稿
●●●●について:
渡欧の経路:
渡欧の目的:
渡欧後の経過:
 

1896年 青山光子が渡欧し、クーデンホーフ伯爵家に嫁ぐ。

未稿
 

1xxx年 上原勇作がフランス留学し、アルザスを本拠とする欧州北朝系ポンピドー家の娘ジルベール・ポンピドーと秘密結婚。

執筆中
上原勇作について:
ギンヅル(吉薗周蔵の祖母)の甥。
渡欧の経路:
渡欧の目的:
國體ワンワールドの情報ネットワークを持つハプスブルク系秘密結社への入会が目的。上原は、部下の甘粕正彦藤田嗣治にも結社に入らせた。
※この國體ワンワールドの情報ネットワークは、神聖ローマ帝国の歴代の皇帝についたハプスブルク家北朝伏見宮)の血筋が渡欧して創った一族)が欧州全体にわたって作ったネットワークであり、いわゆるハプスブルク系秘密結社である。結社の総長は、ジャン・コクトー
渡欧後の経過:
 

1904年 明石元二郎大佐が、國體ワンワールド情報ネットワークを駆使してレーニンに協力し、ロシア革命に発展させる。

明石元二郎について:
・黒田藩士の子息で、玄洋社系の國體参謀だった。
・陸軍大佐の時にロシア駐在武官
渡欧後の経過:
レーニンを買収し、その反政府活動をロシア革命にまで発展させた。その際に利用したのが、上原勇作から教えて貰った國體ワンワールド情報ネットワーク
 

1917年 吉薗周蔵が渡欧し、血液型分離法研究のためにウィーン大学に潜入。

執筆中
吉薗周蔵について:
・公家(正三位右兵衛頭)で孝明天皇の直臣(現在の侍従長相当)であった堤哲長(あきなが)の孫。宮崎県の豪農吉薗家のギンヅルが、堤哲長と京都で出会って出来たのが周蔵の父・林次郎。母は、キクノ(木下)。
・18歳(1912年)の時に、当時、陸軍大臣だった上原勇作陸軍中将の「草」(上原勇作付きの陸軍特務員)となる。
渡欧の経路:
 
渡欧の目的:
渡欧後の経過:
1)明石元二郎大佐から紹介された「草」のネットワークを使って、敵国ハンガリー帝国(オーストリア)において、ウィーン大学医学部のラントシュタイナー研究室までたどり着く。
※この「草」のネットワークは、神聖ローマ帝国の歴代の皇帝についたハプスブルク家が欧州全体にわたって作ったネットワークであり、いわゆるハプスブルク系秘密結社である。結社の総長は、ジャン・コクトー
 

19xx 山下奉文が渡欧し、・・・。

未稿
●●●●について:
渡欧の経路:
渡欧の目的:
渡欧後の経過:
 

19xx 欧州ウバイドである*ダグラス・マッカーサーが、・・・。

未稿
●●●●について:
渡欧の経路:
渡欧の目的:
渡欧後の経過: