黒板五郎の國體ワンワールド

落合史観に関する話題を取り扱うブログ

ヤマト王権(葛城王朝)の誕生


ヤマト王権葛城王朝)の誕生
2017年11月20日(月) くもり
 
本日も寒い。窓ガラスが結露しているのも今季初である。いよいよ本格的な冬になって来た。
 
今回のウバイド・ワンワールドは、東/海路のルートでメソポタミアペルシャ湾沿岸、現在のイラク辺り)から移動して来たウバイド人が、東の極(太平洋岸の島国)に至った後の話である。
☆ウバイド文明の発祥についてはこちら⇒國體ワンワールドとは
 
紀元前3800年頃(5800年前)にメソポタミアから東/海路ルートでインダス川流域(現在のパキスタン、インド西部辺り)に移動してきたウバイド人達は、チグリス・ユーフラテス川メソポタミア)の時と同様にインダス川河口で干拓、砂金採取と農地化を進めて行き、インダス文明を興した。
 
しかしながら、紀元前1400年頃(3400年前)に塩害が発生したため、インダスの地を捨てて次の地を求めて移動開始。
インド洋沿岸を回り東南アジア、南シナ海を経由して日本列島に到達したのである。
 
■日本列島に到達した経路
  インダス ⇒ インド洋 ⇒ マラッカ海峡 ⇒ 南シナ海 ⇒ 台湾海峡 ⇒ 日本列島(詳細ルートは以下)
 
日本列島に到達するに当たっては、幾つかのルートで並行的に進んで来たと推測される(落合莞爾さんの推測)。

■日本列島に到達後
日本列島には、4万年前より縄文人が棲息。
ヴュルム氷期であったが、日本列島は太平洋岸であったため氷結せず、大陸からナウマン象等の大型動物が渡って来ており、それを捕獲して生活する縄文人が4万年前から棲息していた。
  ↓
同じヴュルム氷期を生き抜いたウバイド人縄文人には、共通する波長があったのか、縄文人は、渡って来たウバイド人の文化に共振共鳴し、自分達よりも一歩先に進んでいるウバイド文化を取り入れて行った。こうして、ウバイド人と縄文人は混血して行った。
 
那の津に到達したウバイド人も、志賀島(現福岡市、「漢委奴国王」の金印が発見された島)を発祥とする縄文海民・安曇族と混血をして行った。
 
因みに、メソポタミアを出発して陸路で東に向かったウバイド人が東の極に到着したのは、海路からの移動組から遅れること1000年以上あと、紀元前2世紀である。到達点は豆満江の河口である羅津(らじん)(現北朝鮮の羅先、ロシア国境付近)。
日本列島と羅津がウバイド國體ワンワールド東の極である。
 
ヤマト王権の誕生
紀元前1世紀頃(京都皇統からの情報では紀元前50年頃)、安曇王権(現福岡近辺)の族長であったイハレ彦は、大陸側で勢力を増してきた騎馬民族鮮卑(せんぴ)、北狄(ほくてき))の事を察知し、来襲に備えて、基地・防衛ラインの縦化(奥深くする)を図る事を決断。
瀬戸内海を東進し、先住の部族を討伐して奈良盆地(大和盆地)に入った。イハレ彦は、そこでヤマト王権葛城王朝)を建て、初代天皇神武天皇となる。
 
ヤマト王権の誕生時期(起源)については、戦後史観では紀元前660年と言われているらしいが、実際は違う。「神武が釈迦よりも下る訳には行かないため遡らせた」という事らしい。京都皇統(偽装崩御して京都堀川御所に入った121代孝明天皇から始まる皇室血統)からの情報である。
 
ヤマト王権以降の系図は、こちら⇒天皇の系図
 
ヤマト王権(皇室)は世界最古の王室である。支那は「中国4千年の歴史」とか言ってるが、あれは単に支那大陸の歴史に過ぎない。支那大陸の王朝は誕生・滅亡・交替を何度も繰り返しており、戦国時代の繰り返しみたいなものである。
 
ヤマト王権物部氏との連立王権
イハレ彦が大和盆地に入って来た時には、実は既に別の王権があった。それは物部氏の王権である。
物部氏は、俗に言う所のユダヤであった。つまり、エジプトで発生した難民が日本列島にも渡って来ていたということである。ただし、物部氏の王権は、安曇族と対抗する様な大きな王権では無かったらしく、イハレ彦がヤマト王権を建てるのに協力して支える役割を担ったそうである。今の自公連立政権みたいなものだと、落合莞爾さんは例えている。物部氏ヤマト王権での役割は、祭祀や武器の製作であったらしい。
 
ユダヤヤマト王権の関わりについては、落合莞爾さんが書籍で詳しく取り上げているので、別の機会にこのブログでも取り上げるかもしれない。(まだ、良く理解してません(笑))